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占いの歴史ー17

占いの歴史ー17

納音(なっ ちん)の特徴-3

 納音で運勢の変化を読み取るのは難しいことではありません。
それは「納音」そのものが、単なる十干十二支の組み合わせに過ぎないからです。
占いを信じる信じないは人それぞれ自由ですが、占いは信じない人ほど一度気になると抜けられなくなるものです。その結果、プロになって人を幸せにすることを考えますが、開運道の考え方は少し違います。占いを知ったら、その占いを自分のために活用して、まずご自分が開運に励み、愛情、金運、健康、仕事など全ての面で自分自身が幸せになって。その余力と余裕で人を幸せに導くように指導しています。いま、開運道では優秀なお弟子さんたちが全国で自立して、新たに弟子を育成しています。これによって開運道の占いはさらに広がりつつあります。
いつの日か、この納音占いもまた、開運道の占いメニューに入るかもしれません。
そもそも音とは、「音が納まる」という意味で、騒がしかった何事かが微意に納まる」ともこと解釈できます。
それを、「始まり「終わり」とみることめ出来ますし、生から死までの「人生全般」とも読み取れます。そこから派生して、納音とは世から死への折り返し点、すなわち人生のターニングポイントとする説もあります。 いずれ、開運道でも、安倍晴明が駆使したと言われる「納音占い」で人生全般を読み取れるようにしてから、それをこうひょうしたいと思います。

納音内容一覧表ー3

21、覆燈火(ふくとうか)・灯籠の灯の如く周囲を照らすが光は中にあり、秘めた力でさり気なく人に尽くす。
22、天河水(てんがすい)・天から降る雨が集まり大河となって人に尽くし万物を潤す大切な存在となる。
23、大駅土(たいえきど)・街道の要所にある駅舎の如く、人や物品を集め、人を元気付けたり癒したりする。
24、釼釧金(さいせんきん)・髪を纏める簪(かんざし)の如く、華やかな言動で人をまとめる能力がある。
25、桑柘木(そうしゃくもく)・絹を生む蚕を育てる桑の木の如く、人々に役立つ陰の力となる心強い存在である。
26、大渓水(だいけいすい)・渓谷の流れの如く、澄んだ心で冷静に物事に対処し、細流から大河へと成果を生む。
28、天上火(てんじょうか)・天高く昇る太陽の如く、明るく元気で尊敬され人の上に立って活躍する存在である。
29、柘榴木(ざくろぼく)・長寿の果実のザクロの如く、木。見かけより内容が充実して実力と自信が溢れている。30、大海水(たいかいすい)・大海の水の如く、多くの生物を育てるよな慈愛に富む大きな包容力で人に接する。

以上、納音30種を3買いに分けて掲載しましたが、ご自分の生まれ年の納音はお調べになりましたか?
次回は、もう一度、それを分かりやすく載せてみます。

占いの歴史ー16

占いの歴史ー16

納音(なっ ちん)の特徴-2

  開運道の理念は「生きていてよかった!」と心から幸せな人生を全うあうすることです。くのです。
その道は曲がりくねっていたり急坂だったり難所だらけでも、「楽しかった」と言える環境に落ち着くのです。
開運道では、自分が最善の努力で開運の道を極め、その余力で周囲の人を幸せに導くべく指導しています。
開運道で用いる運勢学の基本は、十干十二支、九星気学、易学の三本柱ですが、四柱推命も納音運勢学も十干十二支が基本ですので、海運道の学習の中に取り入れていますが、どの占術もとくに神秘的というものでもありません。それを扱う占術家の人柄から生じる英知や真剣さが依頼者の心を掴んで信頼と共感と尊敬の念を生むのです。
したがって、開運道では、古来から神秘的な占いとされてきたこの納音占いを、十干十二支占いの別種と捉えて解説を加えて参ります。
納音は全部で30種、60干支を半分にまとめたものです。前回の納音はは、1番の海中金(かいちゅうきん)から10番の揚柳木(ようりゅうぼく)までを載せました。これを60干支でみますと、1番の海中金は、十干十二支でみると1番目の甲子(きのえね・かっし)と2番目の乙丑(きのとうし・いっちゅう)、10番目の揚柳木は、十干十二支でみると19番目の壬午(みずのえうま・じんご)と20番目の癸未(みずのとひつじ・きび)です。
納音と十干十二支の換算は簡単で、納音数を2倍した数とその一つ手前の数が十干十二支の番数です。
例えば、今回記載の11番「井泉水」の十干十二支は、11の倍数の22の丁酉(ひのととり・てゆう)ととその手前の21の丙申(ひのえさる・へいしん)です。20番の金箔金は、20の倍数の40の癸卯(みずのとう・きぼう)と、その手前の39の壬寅(みずのえとら・じんいん)の二つを含みます。
この十干十二支の番数の出し方は。簡単です。興味がありましたら覚えておいてください。
上記の39、40の場合、下一桁は十干です。それらの数を12で割って残った数が十二支の番数です。
39の下一桁は9ですから9番目の十干で壬(みずのえ)、39を12で割ると3が残って十二支は3番目の寅です。
40の下一桁は0で10番目の十干で癸(みずのと)、40を12で割ると4が残って十二支は4番目の卯です。
開運道の占いは、長い実占の経験と研究によよってプロの占術家養成に最善の教授法を編み出しています。

納音内容一覧表ー2
ご自分の納音は、善前々回の納音表でお調べください。

11、井泉水(せいせんすい)・絶え間なく湧き出る泉の如く豊かな知識と穏やかな人柄で世のために尽くす。
12、屋上土(おくじょうど)・土で固められた屋根の安定性の如く、度量があり精神的に優れている。
13、霹靂火(へきれきか)・晴天の霹靂での雷鳴の如く、高い集中力と聡明な頭脳で短期決戦に力を発揮する。
14.松柏木(しょうはくぼく)・常緑樹の松と柏の木の強く長命である如く、忍耐強く信念を貫き渡欧通す。
15、長流水(ちょうりゅうすい)・大河の悠々たる流の如く、大きな包容力で多くの他人の上に立ち世に尽くす。
16.沙中金(さちゅうきん)・砂中に光る僅かな金の如く、機会に恵まれれば秘めた才能が花開き成功に至る。
17、山下火(さんげか)・山の麓で控えめに燃える火の如く、機会に恵まれれば隠れた能力を発揮して活躍する。
18、平地木(へいちぼく)・平凡な地上の樹木の如く、何事もなく平穏無事だが、いざという時には力不足。
19、壁上土(へきじょうど)・幾重に塗られた壁土の如く、強固な意志で物事に対処し必ず目的を達成する。
20、金箔金(きんぱくきん)、金箔になる貴重な金の如く、輝く能力を表面に押し出して注目を浴びる存在となる。
以下、次回につづく

占いの歴史ー15

占いの歴史ー15

納音(なっ ちん)の特徴

前々回(占いの歴史ー13)に生まれ年別にみる納音名を列記してあります。
 まず、そちらでご自分の納音(生年干支の別称)調べておいてください。
この鑑定方法は平安の陰陽師(おんみょうじ)・安倍清明も用いたとされる鑑定法の一つです。
この納音は、生年や占う年の干支で社会運や過去、生月や占う月の干支で家庭運や現在の環境、生日や占う日の干支で子現在の悩みや将来を、それに時間を加えて、あたえられたv課題を読み解んき、それに得意の天文学なども駆使し、得意の「式占い」まで用いることであらゆる事象に対応したと考えられます。安倍晴明が遺した唯一の著書『占事略決(せんじりゃっけつ)』を解読できればもんだいないのですが、内容が難解過ぎて根気が要ります。
今回は納音の簡単な説明だけですので深く学ぶ方は他の資料から学んでください。
開運道式学習法はあくまでもイメージ力優先ですから、簡単な文字から多くの内容を取り出すおとを心がけてください。今回から30種ある納音を10種づう3階に分けてお届けします。

納音内容一覧表ー1

1、海中金(かいちゅうきん)・海底の金塊の如く目立たないが秘めた才能で、いざとなると力を破棄する。
2、爐中火(ろちゅうか)・炉中の火の如く、勢いも枠内なら小さく栄えるが外に放たれれば大きな力を発揮する。
3、大森木(たいりんぼく)・森林の中の木の如く目立たず仲間と仲良く過ごすが暗い環境から抜け出す努力も。
4、路傍土(ろぼうど)・道造りの土の如く地味で目立たないが、堅実でジュウヨウナ役割りには欠かせない。
5.劔鋒金(じんぼうきん)・剣造りに用いる金属のことで、切れ味鋭い才能の持ち主で、どんな難局も恐れない。
6、山頭火(さんとうか)・山頂に燃える火の如く目立った存在で人の上に立ち、優れた才能で人を魅了する。
7、澗下水(かんかすい)・源流の谷水の如く清冽で勢いよく目標めがけて直進する激しい気性と純粋さで成功。
8、城頭土(じょうとうど)・ 城壁から見た広大な土地の如く発展を予見できる埋もれた才能は努力次第で花開く。
9.白鑞金(はくろうきん)・錫(すず)の如く金属と思えぬ柔軟さで何事にも自在に対応して成功への道を進む。
10.揚柳木(ようりゅうぼく)・柳の木の十何さで強風にも逆らわず旺盛な向上心を内に秘めて目標目指して進む。
以下、次回につづく

占いの歴史ー14 納音について

占いの歴史ー14

納音(なっ ちん)について

 前回は、平安時代の高名な陰陽師・安倍清明が占いに用いた生年の十干十二支別納音を記載しました。
この一覧表によって本年2019年の己亥年は、納音の「平地木(へいちぼく)」であることが分かります。
平地木は、華やかさには欠けますが平穏無事を意味しますので。各人個々の納音の特徴の影響もありますが、無茶のない限りは安全です。
まず、前回の「村長の占い豆知識」であなたの納音をお調べの上、次回掲載の「内容一覧表」で照合してください。ご自分の意外な一面をしることになるはずです。それが、納音から見たあなたの性格の長所と欠点です。
なお、明治3年(1882)12月3日生まれの俳人・種田山頭火は、海運出身の占術家なら瞬間的に、西暦から60の倍数を引いて残った数から3をひくだけで19と干支数がすぐ出ますので、種田山頭火は単なる筆名で、納音は19・壬午(じんご・みずのえうま)の楊柳木 (ようりゅうぼく)、種田山頭火の名は「種田楊柳木」でもよかったこと理解できるはずです。
納音の持つ意味などは次回に一覧表を出しますので、ここではご自分とご家族の納音を前回の「納音表」から求めておいてください。
気学九星術では、この納音は用いませんが、推命系の占術では用いることがありますので知っていると役立ちます。
納音は、読んで字のごとく、「始メタことが無事に納まる」という終結状態を意味します。
納音は、音が納まる、物事が 終わる、という意味から後天運を見るのに用いられることがあります。
「納音する」という表現は、自分の納音に対して、十干は同じで、十二支だけが180度相反する「対冲の凶」である場合に用います。
る倍にキョイ中のに
、例えば、私の生年納音は、12・乙亥の山頭火ですが、十干の乙はそのまで、十二支が正反対に位置する巳(み)になる42・乙巳(きのとみ)の・覆燈火(ふくとうか)になります。、
この42・乙巳(の・覆燈火が、命式内に表れる後天運の大運、年運、月運、日運などに出た時に、「年干支が納音する」といい注意が必要になります。
では、どのような災いがあるかといいますと、環境の悪変化、周囲の人間関係の悪化、仕事の停滞、親しい人との別離、孤立などです。
これを防ぐためには陰陽師の念力や神通力に加えて危機回避の対応策が必要とされ、それに優れた術者が安倍晴明だったのです。
この納音は現代でも使いこなすことが出来ます。例えば私(花見)は、12乙亥・山頭火で、本年の令和元年(2019)は36・己亥の平地木(へいちぼく)で、十干では木剋土(もっこくど)で殺気(-1点)ですが、十二支が「方合の吉(+3点)」で得点は+2点です。デス・コネクション
これを読み解くと、山頭火の私はれ姿勢に頭を冷やして闘争心を収めて、平地木の持つ「平凡ながら穏かで恵まれた環境」で過ごすことになり、無時にまた一年老いを重ねることになります。
もちろん、安倍清明の占いの本質は、納音ではありませんが、ひとまず次回は納音の特質について述べます。楽しみにお待ちください。

占いの歴史ー13 納音(なっちん)-1

占いの歴史ー13

平安時代末期から鎌倉時代の初期にかけて活躍した安倍清明の用いた占の骨子の一部は十干十二支であることは史実や伝承からみて明らかですが、そのうちの一つに十干十二支をさらに変化させた納音(なっちんを用いた占いがあります。
納音(なっちん)とは、陰陽五行に基づいて創られた六十干支をさらに、木火土金水の五行に分類した上に、それぞれに形容詞を付記して六十干支を半分の30納音に分類し、火と雄運命や性格を判断するというものです。
生まれ年の納音は、高島暦の表紙裏などにありますが、下記の表でご自分の納音を調べておいてください。
次々回からは、その納音で、あなた自身が占えるようになるのです。
では、納音から何が分かるかと言いますと、人の運命、秘めた才能、人間か関係など多岐にわたって診断できるのです。
なお、私(花見)の納音は「山頭火」、著名な俳人の『種田山頭火』は、納音では「山頭火」ではなく単なる俳名に過ぎません。

納音表(2月3日までに生まれた人は前年でみます)

海中金 (かいちゅうきん)=1・甲子(1924,1984)、2・乙丑(1925,1985)
爐中火(ろちゅうか)=3・丙寅(1926,1986)、4・丁卯(1927,1987)
大林木(たいりんぼく)=5・ 戊辰(1928,1988)、6・己巳(1929,1989)
路傍土(ろぼうど)=7・庚午(1930,1990)、8・辛未(1931,1991)
釼鋒金(じんぼうきん)=9壬申(1932,1992)、10・癸酉(1933,1993)

山頭火(さんとうか)=11・甲戌(1934,1994)、12・乙亥 (1935,1995)
澗下水(かんかすい)=13・丙子(1936,1996)、14・丁丑(1937,1997)
城頭土(じょうとうど)=15・戊寅(1938).1998)、16・己卯(1939,1999)
白鑞金(はくろうきん)=17・庚辰(1940,2000)、18・辛巳(1941,2001)
楊柳木 (ようりゅうぼく)=19・壬午(1942,2002)、20・癸未 (1943,2003)

井泉水(せいせんすい)=21・甲申(1944,2004)、22・乙酉(1945,2005)
屋上土(おくじょうど)=23・丙戌(1946,2006)、24・丁亥(1947,2007)
霹靂火(へきれきか)=25・戊子(1948,2008)、26・己丑(1949,2009)
松柏木(しょうはくぼく)=27・庚寅(1950,2010)、28・辛卯(1951,2011)
長流水(ちょうりゅうすい)=29・壬辰(1952,2012)、30・癸巳(1953,2013)

沙中金(さちゅうきん)=31・甲午(1954,2014)、32・乙未(1955,2015)
山下火(さんげか)=33・ 丙申(1956),2016)、34・丁酉(1957,2017)
平地木(へいちぼく)=35・戊戌(1958,2018)、36・己亥(1959,2019)
壁上土(へきじょうど)=37・庚子(1960,2020)、38・辛丑(1961,2021)
金箔金(きんぱくきん)=39・壬寅(1962,2022)、40・癸卯(1963,2023)

覆燈火(ふくとうか)=41・甲辰(1964,2024)、42・乙巳(1965,2025)
天河水(てんがすい)=43・丙午(1966,2026)、44・丁未(1967,2027)
大駅土(たいえきど)=45・戊申(1968,2028)、46・己酉(1969,2029)
釼釧金(さいせんきん)=47・庚戌(1970,2030)、48・辛亥(1971,2031)
桑柘木(そうしゃくもく)=49・壬子(1972,2032)、50・癸丑(1973,2033)

大溪水(だいけいすい)=51・甲寅(1974,2034)、52・乙卯(1975,2035)
沙中土(さちゅうど)=53・丙辰(1976,2036)、54・丁巳(1977,2037)
天上火(てんじょうか)=55・戊午(1978,2038)、56・己未(1979,2039)
柘榴木(ざくろぼく)=57・庚申(1980,2040)、58・辛酉(1981,2041)
大海水(たいかいすい)=59・壬戌(1982,2042)、60・癸亥(1983,2043)

占いの歴史ー12

占いの歴史ー12

陰陽師占いは安倍晴明が極めた陰陽道の奥義です。
現代でも、その清明の用いた式占(ちょくせん)は形を変えて連綿として伝わっています。
安倍晴明は、式神(しきがみ)使いと謂われますが、それだけではなく、私たちが用いる占いの基本を駆使していたことが分かっています。
その基本は、十干十二支(じっかんじゅうにし)、納音(なっちん)など、占方としては、式占(ちょくせん)、六曜(りくよう)、奇門遁甲(きもんとんこう)などを用いていたと考えられています。
この中で安倍晴明を最も有名にしたのが12人(または12匹)の式神(鬼神)を使役した式占です。現存する『泣不動縁起(なきふどうえんぎ)絵巻』の一部分には、式神たちは
十二右端に描かれている式神は、識の神(しきのかみ)、式鬼(しき)、式鬼神(+しきじん)、荒ぶる神、十二将などの名称で呼ばれ、「式」とは「用いる、使役するの意味であることから、神霊(不思議な現象)を成すために、必要に応じて十二体の妖怪変化を駆使して事件を解決した占いが安倍晴明の式占であると伝えられてています。
テレビドラマでは、紙で+出来た人形に清明が「フッ」と息をふきかけると、たちまち従僕が姿を現して庭先にかしずき「ハイ、ご主人さま・・・」、と、まるで「アラジンと魔法のランプ」と同じで、まるで説得力がありません。
いくら平安時代には摩訶不思議な現象がまかり通るといっても、手の平サイズの紙片が一瞬で人間に化けるなどは、マジックショー以外には考えられません。あるいは、安倍晴明はマジックショーの先駆けで、先代の引田天功が安倍晴明の跡を継いだ、と考えることも出来ます。しかし、平安時代にそのような奇術があったとは思えませんので、次回はこれを理詰めの解釈で説明してみます。

占いの歴史ー11

占いの歴史ー11

安倍晴明はどのような占術を用いたのか? それを分析してみたいと思います。
まず、古い書物に載っている記述では、どの書物でも「安倍晴明は式神を使役していた」とされています。この式神(しきがみ。しきじん)なるものの実態を確かめるべくが掴めればいいのですが、式神(識神とも)とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるものとされています。
では、その鬼神とは、どのようなものかというと、「妖怪変化の中の荒ぶる神」という説が尤もらしく伝わっています。
 現存する安倍晴明関係文書に『不動利益縁起絵巻』(部分)というものが三井寺にあります。それによると、、祭壇を構えて2匹の式神を従えた安倍晴明が、姿を現した物の怪どもと対決しながら祈祷を続けている姿があります。これで見ると安倍晴明は祈祷師でもあったことが分かります。
では、安倍晴明は祈祷師だったのかというと、きちんとした占いも沢山残されていますので、安倍晴明は天文学にも通じた優れた科学者であり、優秀な占術家であることも間違いないようです。

占いの歴史ー10

占いの歴史ー10

どこで脱線したのか、占いの歴史を簡単に述べるつもりが、安倍晴明の話題から中世の宮廷政治に迷い込んでしまいました。
そろそろ平安時代にサヨナラしないと話が前に進みません。
ともあれ、花山天皇の退位後も安倍晴明の人気は衰えず、一条天皇や藤原道長など特の為政者の信頼を深め、安倍晴明の時代はまだ続きます。
当時の貴族の日記は、有名無名を含めて何種か遺されていますが、道長の日記にも安倍晴明の活躍ぶりが描かれています。
とくに、正暦4年(0993年)の春、一条天皇の重い病いが安倍清明の禊(みそ)ぎや祈祷で快復した事象や、寛弘元年(1004年)夏の全国的な干魃(かんばつ)による農作物被害が、一条天皇の命による安倍晴明の雨乞いの儀式・五龍祭を始めた直後から、全国的に大量の項羽となって枯れかけた農作物を蘇生させて農民を救ったことなどが記述されています。
たとあります。
こうして一条天皇の信任を深めた安倍晴明は、天文道で学んだ計算能力をも生かして出世を重ね、主計寮(現在の財務省主計局)に栄転して主計権助となります。さらに左京権大夫、穀倉院別当などの主要官職を駆け昇るように大出世して位階もついに従四位下に昇進する事態となります。
さらに、晴明の偉名によって、二人の息子までも出世し始め、長男の安倍吉昌が天文博士になり、次男の安倍吉平が陰陽助に就き、ついに安倍一族は、清明の師である賀茂氏を抜いて日本一の陰陽道の家としての地位を築いたのです。
こうして安倍晴明を考察すると、古代中国の三国志で活躍した蜀の軍師・諸葛亮孔明との類似点が多いことに気付きます。
清明も孔明も神がかって誇張された伝説に包まれて半ば神格化されて神社にもなっていますが、所詮は紛れもない人間です。聡明であり天文地理の知識に長け数理に強く、医術にも通じる博識万能のスーパーヒーローだったと考えられます。
ならば、清明が用いた「陰陽道・式神12将軍の術」、孔明が用いた「八門遁甲の術」とはいかなるものであったか?
次回から、これら歴史上の伝説を現代の常識で紐解いてみたいと思います。

占いの歴史ー9 安倍晴明

占いの歴史ー9

 安倍晴明は28歳の天暦2年(948)、師の推挙もあって、宮中で宿直や警護、その他の雑事に従事する大舎人(おおとねり)寮に属すことになります。この役は下級官職ながら律令制では中務(なかつかさ)省に属し、左右2 寮に分かれて定員は左右各800人 (のち左右合せて400人に削減) で、これが清明の世に出るきっかけになります。
そこで頭角を現した清明は天徳4年(960年)に、陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職である天文得業生に抜擢されます。そのとき40歳、当時としては遅い出世でした。
官職としての出世は遅い晴明でしたが、占いの才能は抜群で、貴族社会み認められただけでなく、宮廷に招かれて村上天皇の御前でも占いを求められるなど、陰陽師としての地位は確たるものになっていました。
やがて、50歳を過ぎた清明が天文博士に任ぜられ我が世の春を謳歌していた貞元2年(977年)、師の加茂保憲が病に倒れて没し、安倍家は賀茂家と並ぶ二大陰陽家として肩を並べることになります。
天元2年(979)、59歳の晴明は、皇太子師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗(山賊?)を封ずる儀式を行って、成果を示しています。
この事もあって、花山天皇在位時は信頼も厚く、宮廷内の占いや陰陽道の儀式を清明が一手に引き受けていました。

占いの歴史ー8

占いの歴史ー8

平安時代後期に活躍した陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明は歴史に残る実在の人ですが、そのエピソードに関しては誇張が多くて信じ難いことばかり、占術ではなく妖術とでもいうべき世界の物語でしかありません。
そこで、この10連休を利用して今までに伝えられている事象を、私の書斎に半世紀前から埃を被って眠っている古典文学全集などか一日がかりで探してみました。
『大鏡』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『平家物語』などからその伝承を探してみました。
ところ、8・が、ついでに斜め読みした「『竹取物語』の中に、清明らしき人物が安倍宿禰(すくね)晴明という名で登場しています。陰陽師実在・したの安倍晴明は、官職でいえば、宿禰よりかなり上位の朝臣(あそん)ですから、物語では狂言回しの役柄からみても、格下に貶(おとし)められていことになり、竹取物語の作家は、帝の信頼篤く当時隆盛を極めた安倍晴明をあまり快く思っていなかったのかも知れません。
いずれにしても、古典から浮かび出てくる陰陽師・安倍晴明なる人物が時代の寵児であったことは紛れもない事実です。
、それから千数百年の時を経た今、こうして占術の歴史を語る私にとっても、この偉大な陰陽師だけは少し触れただけで素通り出来るような軽い存在ではないのです。その用いた術が占術ではなく、あまりにも妖術めいているからです。
陰陽師・安倍晴明の出生については2説あり、1説では、延喜21年(921)摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)出生説です。もう1説は、生年不詳、奈良県桜井市安倍の出生とする説ですが、幼少の頃については確かな記録はあまりません。
学問を志した清明は、当時の天文・陰陽寮を一手に束ねていた陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に弟子入りし陰陽道と天文道を学びます。