占いの歴史ー3
朝廷の補佐役として活躍した公職にある陰陽師は、政治の場においても貴族社会においても大きな力を発揮しますが、武家社会に変わって行くにつれて陰陽師の影響力は衰退します。それに替わって台頭するのが庶民出の民間の陰陽師です。
貴族社会に君臨した平安中期の陰陽(おんみょう)家で著名なのは、土御門家(つちみかどけ)家で、その一族からは有名な陰陽師が何代にもわたって排出されています。
なかでも文武(もんむ)天皇時代の右大臣阿倍御主人(あべのみうし・635―703)がよく知られています。
阿倍御主人は、672年の壬申の乱で大海人皇子(おうあまのおうじ・後の天武天皇)方の功臣でもあり、晩年には太政官の頂点の座にあった人物で、平安時代初期に創られた「竹取物語」に登場する右大臣のモデルです。
その子孫が前回登場の阿倍清明(あべのせいめい)です。
清明は、花山(かざん)天皇の譲位を予言するなど数々の伝説を持つ陰陽師で、現存する著書は「占事略決」1巻のみです。
その安倍清明が用いた占術を推測すると、中国の陰陽五行の思想に基づいた筮竹易占いや天文と干支を組み合せて占う「六任神課(りくじんしんか)」と「式占(しきせん)」という占いに加えて、地相や家相を観たのではないか、とされています。
当時はまだ四柱推命は日本にはなく、四柱推命が日本に入るのは江戸時代中期とされています。
その四柱推命の名も日本で命名された独自のもので、中国では「命学」または「命理」と呼ばれています。
この四柱推命も、他の東洋の占術同様に陰陽五行の思想に基づいて、生まれた年月日時の十干十二支から4つの柱を選び、それで人の命運を占うもので、中国では12世紀にすでに出来上がっていたのです。