占いの歴史ー10
どこで脱線したのか、占いの歴史を簡単に述べるつもりが、安倍晴明の話題から中世の宮廷政治に迷い込んでしまいました。
そろそろ平安時代にサヨナラしないと話が前に進みません。
ともあれ、花山天皇の退位後も安倍晴明の人気は衰えず、一条天皇や藤原道長など特の為政者の信頼を深め、安倍晴明の時代はまだ続きます。
当時の貴族の日記は、有名無名を含めて何種か遺されていますが、道長の日記にも安倍晴明の活躍ぶりが描かれています。
とくに、正暦4年(0993年)の春、一条天皇の重い病いが安倍清明の禊(みそ)ぎや祈祷で快復した事象や、寛弘元年(1004年)夏の全国的な干魃(かんばつ)による農作物被害が、一条天皇の命による安倍晴明の雨乞いの儀式・五龍祭を始めた直後から、全国的に大量の項羽となって枯れかけた農作物を蘇生させて農民を救ったことなどが記述されています。
たとあります。
こうして一条天皇の信任を深めた安倍晴明は、天文道で学んだ計算能力をも生かして出世を重ね、主計寮(現在の財務省主計局)に栄転して主計権助となります。さらに左京権大夫、穀倉院別当などの主要官職を駆け昇るように大出世して位階もついに従四位下に昇進する事態となります。
さらに、晴明の偉名によって、二人の息子までも出世し始め、長男の安倍吉昌が天文博士になり、次男の安倍吉平が陰陽助に就き、ついに安倍一族は、清明の師である賀茂氏を抜いて日本一の陰陽道の家としての地位を築いたのです。
こうして安倍晴明を考察すると、古代中国の三国志で活躍した蜀の軍師・諸葛亮孔明との類似点が多いことに気付きます。
清明も孔明も神がかって誇張された伝説に包まれて半ば神格化されて神社にもなっていますが、所詮は紛れもない人間です。聡明であり天文地理の知識に長け数理に強く、医術にも通じる博識万能のスーパーヒーローだったと考えられます。
ならば、清明が用いた「陰陽道・式神12将軍の術」、孔明が用いた「八門遁甲の術」とはいかなるものであったか?
次回から、これら歴史上の伝説を現代の常識で紐解いてみたいと思います。