講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-6

 特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-6

高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

「レジュメ」-4

小選挙区制は、政治腐敗をなくす趣旨で成立し、当時はメディアも賛成しましたので、我々にも責任がないとは言えません。その反省も含め、改革を考えないといけない時期だと実感しています。
「田中ブーム」で、元首相を偉大な政治家として評価することは理解できますが、では、我々が国政を託せる政治家をどのようにして育ててゆくのか、育てるための制度をどのよぅに改革してゆくのか、といつたテーマも、議論してほしいな、と思っています。
もうひとつ、元首相を語る時、田中金権政治への反省を忘れたくないと思います。人物論、人情論がもてはやされ、田中人気を生んでいますが、個人的魅力だけではなく、「カネの力」をフルに活用してきた側面を無視すべきではない、と指摘しておきたい。
おカネに関する証言は、受け取った側が公にしない限りなかなか表に出ないのですが、元首相を尊敬している渡部恒三元衆議院副議長は、今年(二ハ年)七月の朝日新聞で、初当選時に幹事長だつた田中さんから、公認料の三〇〇万円をポケットにねじ込まれた生々しい状況を披露しています。元首相らしいお金の渡し方を彷彿とさせる場面です。
田中直系の金丸信元議員が佐川急便から五億円の現ナマを受け取った事件など、金権の後遺症はロッキード事件後もずっと続いています。
元首相は官僚の人心掌握術にたけていた、と評価され、最近の「角栄本」でも官僚の心をつかんだ言葉が羅列されています。確かに人情、決断、責任の取り方など人を動かす能力、人たらしと言われるほどの力は、並みの政治家とは比べ物になりませんが、その裏に必ずといっていいほど、現金を渡す手法があつた。官僚の中にはそれを拒否して冷や飯を食った、といわれる人も存在します。カネの威力を知っている元首相はフルにそれを活用して自分の味方、人脈を築き上げてきた、と思われます。
関連して、元首相の盟友といわれた小佐野さんの話をします。裁判が進行している頃、八重洲にあつた国際興業の本社に小佐野賢治社主を取材で訪ねました。初めて会った日、帰り際に「ウイスキーでも持って行けや」と声をかけられ、「一本ぐらいなら」と待たせておいた会社のハイヤーに戻ると、ホワイトホースニダースが入った箱が後部座席にでーんと置かれていました。
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蟻んこの顔も見ないで土用波

田舎では、砂糖や菓子のかけらを落とすと、どこからか蟻が集まってきた。都市化が進んだ東京では、ほとんど見かけなくなつた光景。先日の鎌倉の海も、もう土用波。

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-5

特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-5

高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

「レジュメ」-3

もう一点、この小説では元首相が「受託収賄容疑で逮捕された」と決定的な過ちを犯しながら、嘱託尋問調書などロッキード裁判や司法の在り方を批判する論理を展開しているところに、不思議な感じを持ちました。司法の批判をするなら正確な事実に基づくべきで、カチンときて出版社へのはがきに「逮捕容疑は外為法違反」と書いて投函しました。受託収賄罪は起訴の時点で適用されましたが、逮捕時点の外為法適用は、五億円のうち最初の一億円授受の時効が迫っていたため、特捜部が頭をひねった手法でした。
私はずつと、「被告人」としての田中角栄、という側面から批判、観察してきました。いまの田中ブームの中でも批判されるべき点はきちんと指摘しておくべきだと思つています。
ちなみに石原さんの息子さんの衆議院議員、石原伸晃さんは、自民党の有力政治家の中では、中国にまったく受け入れられず、人脈もない。総理を目指そうという政治家として、この弱点に苦慮しているという見方があり、日中国交回復を実現した田中元首相を持ち上げることで、中国に擦り寄ろうとしたのではないか、と石原さんの真意を憶測する中国通のジャーナリストもいることを付け加えておきます。
最近、周りの人にこの本の評価を尋ねられることがありますが、以上のような観点から、あまりお勧めはしていません。
「いま田中角栄さんのような政治家がいれば」と無い物ねだりのブームが起きている背景のひとつは、選挙制度の問題です。一九九六年の小選挙区制導入以来、二〇年になりますが、自民党は有権者の二割から三割弱の支持しか得ていないにも関わらず、国会で圧倒的な勢力を維持している。
同時に、小選挙区になつて、中選挙区時代のように党内での競争、切瑳琢磨がないため、政治家が育たない。小泉チルドレンとか、安倍チルドレンといった呼び方がされますが、党首との力関係も圧倒的に差があり、党内で 政治家一人一人の主体的な議論ができない風土が作られています。
中選挙区の時代には、派閥間の競争などが激しく、お金で政治が動く事件も摘発され、その反省から小選挙区制度が導入されたわけですが、政治家の活力そのものは大幅に失われた印象です。国民は、そんな政治家を見ているから、田中元首相がいま生きていたら、といった期待感を抱くことになります。

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魔女さんと有楽町で出逢う秋

魔女さんは連れ合いの友人、佐藤明子さんの愛称、二日前の夕方、交通会館の通路でその魔女さんに声をかけられた。フランク永井の「有楽町で逢いましよう」は、駅周辺に新開各社が立地していた頃、地方から東京へ転勤の願いを込めた歌でもあつた。

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-4

 

特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-4

高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

「レジュメ」-2

本論である「いま、なぜ田中角栄なのか」というテーマですが、石原慎太郎さんが執筆した元首相の自伝的な小説 「天才」 の感想を中心にお話しします。何度か新聞に掲載された広告の切り抜きをいくつか持ってきましたが、「二〇一六年上半期ベストセラー総合一位」 「九〇万部突破」などと宣伝しています。
石原さんは、田中金権政治などを厳しく批判し、自ら台湾派だったので、元首相の最大の功績ともいえる「日中国交回復」にも反対していた政治家ですが、広告では「この歳になつて田中角栄の凄さが骨身にしみた」というコピーが使われています。
著書がベストセラーになつて、石原さんは、いま、「角さんに対する一種の罪償い」「日本がこれだけ機能化できたのは角さんのおかげ」と、日本列島改造論などの成果を持ち上げる。確かに「雪深い新潟の庶民の幸せを考えて政治家として出発した」元首相の原点を考えれば、「愛の政治」と評価することも納得できるかもしれません。
ただこの小説を読み始めて、本当に作家・石原慎太郎が書いたのだろうか、という違和感が最後までぬぐえなかつたというのが、感想です。いろんな資料や他人の著書を下敷に、自分の解釈をやや独善的に付け加えているということでしょうか。
この小説は元首相が 「俺」 という主語で語る自伝形式をとつていますが、内容は元首相に関するいろいろな出版物を引用する形で成り立っています。ここに「角栄の『遺言』『田中軍団』最後の秘書 朝賀昭」(「角栄のお庭番 朝賀昭」改題)」という本があります。これは、かなり若い後輩である中澤雄大記者がまとめたもので、「側近である秘書が見た元相像」という資料的価値のあるものですが、石原さんはこうした本を下敷きにして小説「天才」を書いています。

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風の盆 話題にすれど いまだ見ず

富山市八尾は三日まで静かな踊りの波が町を覆う。二〇数年前に浦和のある女性が、眼をきらきら輝かせて八尾体験を話してくれた時に、初めて風の盆を知った。カラオケで菅原洋一さんの「風の盆」を歌つたりする。

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-4

特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-4

高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

「レジュメ」-1

ロッキード裁判 一審判決は八三年十月十二日元首相に懲役四年、追徴金五億円の実刑。二審も有罪。元首相は、最高裁に上告中の九三年二月一六日死去。享年七五。元首相は死亡により公訴棄却となつたが、丸紅側被告らの丸紅ルートの最高裁判決(九五年二月二二日)で五億円贈賄の事実が認定され、ほぼ十八年の歳月をかけて終結。
この一八年間は検察当局にとって、元首相を必ず有罪にしなければならないというプレッシャーとの闘いで、その一方で元首相は「闇将軍」「キングメーカー」として中曽根首相の誕生などに大きな影響力を持った時代が続いたことはご存知の通りです。
この間、裁判の取材と並行して、正月元日には田中邸の門前に立って、出入りする年始客をチェックするという取材を、元首相が亡くなった翌年の九四年まで一四年間、続けました。拙著「陽気なピエロたち田中角栄幻想の現場検証」(社会思想社)で詳しく報告したことと重なりますが、政治家や官僚・役人だけでなく、就職や進学、結婚などで世話になつた人たちが何百人も年始に訪れる。いまも続く「田中人気」を考える場所として、自分としては一つの検証の場ととらえていました。
ある年、秘書の早坂茂三さんは「門の前にいる記者さんに、温かいものでもふるまったらどうか、と親父さんが言っている」などと声をかけてきたこともありました。最近の角栄本にみられる元首相の「情」に通じる言葉です。
現実には、元首相やそれを取り巻く人たちを批判する立場の社会部記者は、いわば 「招
かれざる客」 です。同じ新聞社でも政治部記者とは立場が違うので、寒空の下で立ちん坊の取材を毎年、続けていました。

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船渡御のこれが生きがい佃島

住吉神社例大祭二日目は、隅田川に浮かべた台船に神輿を載せて、佃大橋、勝開橋の下を神官たちも一緒にゆつくりと。先祖代々、佃に住む人たちは、この日のために準備を重ね、三日間を暑さに挑んで楽しむ。

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講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-3

特別寄稿第2弾

 

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-3 高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

「高官逮捕」を予測する朝刊を印刷する輪転機は回っていましたし、我々はこの「異変」をカモフラージュと受け止め、プラスの判断材料と考えました。事実、吉永さんは当日の早朝に裏口からひそかに検察庁に入り、私が午前六時過ぎに特捜部の部屋の前に行った時には、電話で出先の検事に指示する声が聞こえ、七時前には東京地検トップの検事正も裏口から登庁してきました。
ロッキード事件では、捜査が成功しなければ、特捜部は二〇年は立ち直れないという危機感が検察幹部の中にもありました。そのため厳密な秘密主義が徹底していて、それは主任検事の吉永さんの方針だったわけですが、我々は情報戦争に勝てなかったということです。同時に、それまでの特捜部の捜査では、疑惑解明のため(身分の)下から身柄を確保し最後に頂点に達する手法が一般的でしたが、今回は最初からトップを逮捕する手法に意表を突かれたとも言えます。
当時は徳島県出身の三木武夫さんが首相で、田中元首相が金脈問題で退陣した後、政権に就いたわけですが、派閥の力学としては弱小で安定政権ではなかった。特捜部は「TANAKA」の名前が記載された米国の極秘資料を四月十日に入手し、このままロッキード捜査が進むと田中元首相など自民党主流の実力者に捜査の手が及びかねない、と三木首相の退陣を狙った政界の動きが大きくなりました。
新聞としては、三木さんが退陣すると、事件の全容解明が難しくなり、それは国民の利益にもならないと、紙面で「三木降ろし」に反対するキャンペーンを張り、なんとか元首逮捕の日までこぎつけたわけです。新聞社は、社会部と政治部という別々の組織が、役割分担していますが、このキャンペーン、は社会部が主導権をとって進めました。
ロッキード事件の捜査は約1年で終わり、翌年1月から東京地裁で裁判が始まりました。
経過はレジュメをご覧ください。
つづく
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母の日に母の姿のいま昔    五月一四日  お盆なので・・・

母の十三回忌も過ぎて、花を贈ったり声をかける人はいない。母から子へ、子から孫へ、孫も母親になって、それぞれに母の姿がある。長い時間のつながりの中で、一人一人の幸せを願う。まだ二歳前後の頃、母と一緒に撮った写真を飾り、時々、手を合わせる。

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-2

特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-2 高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

 この時、確認すると、毎日新聞の写真部員がまだ到着していない。あわてて100メートルほど離れた記者クラブに走って、普段、自分が使っているカメラを持ってきて、カメラマンの最前列、車が止まる位置の一番近くでシャッターを切りました。ストロボなしで、本当に撮影できたのか、不安でしたが、会社から現像結果を知らされ、ほつとしました。
これがその日の号外のコピー=写真=で、
元首相の姿が、何とか映っていました。最初、車から降りてきた時には「どこの田舎の代議士か」という第一印象で、田中元首相と気づくのに、一瞬、時差がありました。大手新聞社の中には、元首相が出頭する写真を撮れなかった会社もあり、自分の生涯でも一番、強烈に印象に残っている写真です。号外の裏面に私の署名記事も掲載されています。
この時、感じたことは 「権力のトップにいた人物でも、不正があれば司法は毅然として巨悪に切り込む」という思いで、司法・立法・行政の三権分立、つまり「健全な民主主義」が機能したと実感しました。ちょうど当日の、夏の日の青空のような気分でした。
その後の政治状況やダグラス・グラマン事件、リクルート事件などの取材を体験して、の思い、素直な感想は「甘すぎた」という、裏切られた、と感じることになるのです∴捜査のクライマックスの時点では、そんな気持ちでした。
ロッキード事件はその年の二月四日、アメソカから飛び込んできた事件で、私はその時点から主任検事の吉永祐介さんなど検察幹部を担当して、毎晩毎晩、夜回り取材を続けていました。元首相逮捕の前夜も、先ほどの「検察、重大決意へ」「高官逮捕は目前」の原稿を書いて社会部デスクに出した後、当時、新宿区西大久保にあった吉永さんの官舎に向かいました。ところが近くの公園に他社の記者たちがいて、吉永さんは「お腹の調子が悪いので、明日は病院に寄ってから検察庁に行く」と言い残して自宅に入ってしまった、という話でした。
つづく
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「羊飼」の 絵葉書にまた 古稀想う   1月23日
河彦
新聞社時代の先輩を中心に同人誌「人生八聲」を創刊した。16人が記者時代の思い出や書きそびれたことなどを執筆、なかなか充実した内容と自画自賛。一冊をお送りした方から、「羊飼」の絵葉書で礼状をいただいた。未年に古稀を迎えることを、改めて想う。

「いま、なぜ田中角栄なのか」-1

特別寄稿第2弾

講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-1

=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋

故郷・徳島のNPO法人吉野川市文化協会が主催するふるさと講演会で一六年七月三〇日に、出版界を中心とした「田中ブーム」について一時間余話した内容を再録する。

ここに「角栄本」といわれる出版物を一〇種類ほど持ってきました。今年はロッキード事件から四〇周年ということで、NHKでも七月二三、二四日に、三部作合計四時間近くのドキュメント番組を放映、新聞社でも元首相逮捕当日の二七日に合わせて、特集記事を掲載しています。出版界では、石原慎太郎さんの小説「天才」がベストセラーになつたことで火が点いたように、二匹目、三匹目のドジョウを狙って、商魂たくましく「角栄本」を出版、というところです。
最初に私がなぜ、このタイトルでお話しするのか、その理由から始めたいと思います。
私は一九六四年に川島高校を卒業して東京の大学に進学しました。東京五輪の年で、東海道新幹線もその年の一〇月に開通しています。大学に五年ほどいて、六九年に毎日新聞に入社し、七三年に東京社会部配属です。
ロッキード事件が発生したとき、一九七六年ですが、たまたま東京地検特捜部など検察庁を担当していて、「戦後最大の疑獄」と呼ばれる事件を取材することになりました。発生当時三〇歳、毎日新聞の司法記者クラブのメンバーの中では最年少で、「元首相逮捕」の時点では三一歳、いま七一歳なので、ちょうど四〇年ということです。
ここに元首相が逮捕された当日の毎日新聞朝刊一面トップのコピーを持参しました。「検察、重大決意へ」「高官逮捕は目前」「五億円の流れ突きとめる」という見出しで、元首相の名前は出ていませんが、捜査の展開を的確に予測した記事、と読める体裁になっています。新聞界内部では「特ダネ」として宣伝しています。ただ、当日の朝、元首相の秘書だった榎本敏夫さんの自宅に張り番の記者を出していましたが、目白の田中邸には配置していませんでした。
元首相が松田昇検事らに同行されて車で東京地検の正面に着いたのが午前七時二七分。
その直前に、主任検事の吉永さんと川島興特捜部長が姿を見せ、カメラマンなどが待機している玄関前に誘導用のロープを張るよう指示しました。捜査が進展した六月に入ってから、丸紅や全日空の社長ら幹部が出頭して逮捕された時、混乱防止のためにロープが張られたことはありますが、特捜部長と主任検事がその場に姿を見せて指示したケースは前代未聞で、「これは大変だ」と緊張したことを覚えています。

つづく
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桃と梨 福島産をいただいて

同時期に、桃と梨を別々の知人からいただいた。梨には安全を示す放射能の証明書がついていた。二月に福島を訪れた際、桃畑はまだ花も咲いていなかつた。風評被害などに負けずに、どんどん流通してほしい。

梅南裂いて青い電車がやってくる

 

今日も雨 プロントの娘(こ)の眉曇る   十一日

品川・港南にある自社ビル一階にはコーヒーのプロント本社があり、ほぼ毎朝、ホットコーヒーをテイクアウトする。顔なじみの女性店員が「今日も午後は雨だそうですね」と。

傘たたみ 祝いの酒は惣誉(そうほまれ)   十二日

「田中正造とその周辺」(随想社)を上梓した赤上剛さんの祝賀会が十一日、門前仲町「久寿乃葉」で。梅雨の雨の中、親しい仲間が集まり、乾杯。出身地の栃木県・真岡の女性が大吟醸「惣誉」を持参し、お祝いに花を添えた。正造研究はなお、と。

梅南裂いて青い電車がやってくる    十三目

JR有楽町駅でほぼ毎日、京浜東北線の青い電車を利用する。南アフリカのブルートレインは、青い車体に黄色のアクセントがついたデザイン。もう三〇年以上前にヨハネスブルグ・ケープタウン間を乗車した。

蛍舞う 故郷の友のメール來る


蛍舞う 故郷の友のメール來る     六日

故郷徳島の美郷地区。いま螢が乱舞する。高校の同級生、ひでこさんが地元紙に掲載された写真をメールで送ってくれた。彼女は大手術を無事終えて入院中。テレビ画面からツツジの名所の写真も送ってくれて、ふるさとの四季を東京で満喫。

夏のパリ 抱えて帰国 まずは寿司    九日

連れ合いの妹が、パリで働く娘さんを訪ねて一週間ほど滞在し、帰つてきた。羽田から自宅に着き、門前仲町の「すし銀」へ。この店は偶然入って、ネタが新鮮で値段も手ごろ、と気に入って、時々。土産話など聞きながら、こちらは冷酒で寿司を。

脱原発 夏の宴で声を聞く   さ日

毎日新聞山田孝男特別編集委員の日本記者クラブ賞受賞を祝う会が九日、如水会館で開かれ、小泉純一郎元首相が出席。「原発ゼロ社会実現を一生の仕事にする」と、改めて決意を表明した。受賞理由は週一回掲載の政治コラム「風知草」の自由な言論。

新潟へ 七二七の席の縁

 

紫陽花が ベランダで咲く南の精

梅雨の季節にピンクの花が目を楽しませてくれる。連れ合いが生け花の花材を挿し木しておいたら、初めて花を着けた。ほとんど水だけで成長したらしく、水の精でもある。土地の条件によって色が変わり、我が家はピンク。

新潟へ 七二七の席の縁      四日

新潟出張で上越新幹線。東京駅で切符を確認したら、七号車二七A。田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された七月二七日を連想する人は、ほとんどいないと思うけれど、三八年前のあの夏の朝、東京地検前で現認した光景が浮かんだ。

顔だけが スマホで光る夏の闇

前から歩いて来る女性は、スマホに集中して顔だけが闇に浮かぶ。昼間、自転車で走っていても、スマホに気をとられて前を見ていない人に神経を使う。自分の安全より、他人に怪我をさせないように、と。