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日脚伸ぶ 寒気はいまだ去らずとも

住専、豊島、司法改革-5

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 中坊さんは「人の不幸を仕事の種にしている」と、弁護士の原罪的な側面に、目を向ける。償いの気持ちも込めて、大阪地裁に近い自分が所有するビルのワンフロアを、住民訴訟や市民団体の会議場として安い使用料で提供する「プロボノ・センター」を92年1月に開いた。本人が亡くなった後も、弁護士有志のカンパなどで継続され、中坊さんの「理念」が具体的な形で受け継がれている。
中坊さんの言葉のひとつ一つを懐かしむだけではなく、それぞれに関わってきた人たちが、中坊さんが残した理念を今の社会に生かしてほしい、と強く願う。

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命日に 裏表なく銀杏舞う
(2015/12/16)
田中角栄元首相の命日。没後21年。目白の田中邸を見に行った。「裏を見せ表を見せて散る紅葉」。最高裁の弁論で丸紅弁護団か引用した良寛さんの句。事実を見極めるには裏と表を見るべき、との主張だが。

冬の社報に デスクを送るひとことを
(2015/12/19)
初任地は静岡支局。初めて出逢ったデスク、阿部修三さんが先月亡くなり、社報に追悼文を寄稿。新聞記者の基本と酒の飲み方を教わった。退職後、巣鴨のとげ抜き地蔵近くに開店したとろろの店も懐かしい。

仲間たち 思い出笑顔忘年会
(2015/12/19)
ここ二週間、仕事絡みの忘年会の間に、個人的なつながりの忘年会が相次ぎ、今日は朝寝してゆつくり。仲間うちの忘年会はノンフィクション作家、佐野眞一さんを囲む会、書道の友野浅峰先生の三〇周年感謝の会など。

日脚伸ぶ 寒気はいまだ去らずとも
(2017・01.12)
夕方五時頃、会社を出る。まだ暗かった数日前に比べ、いまは同じ時間でも明るさが残っている。今日は帰り道、満月を見た。ちょっとした偶然に、反応し、感動できる喜び。

雑煮椀 七日過ぎても飽きもせず

住専、豊島、司法改革-4

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 中坊さんと行動をともにしてきた「同志たち」の思いは、過去を振り返るだけではなかった。中坊さんが「国民に二次負担はかけない」と約束した住専の債権回収は、その過程で自身が弁護士資格返上という大きな傷を受けたものの、約束通りに終結した。
日弁連会長当時から訴え、推進してきた司法改革は、裁判員制度の実現や被疑者取り調べの可視化など着実に前進している。一方で司法試験合格者三千人を目標に掲げた司法の容量拡大という課題は、千五百人規模に逆戻りし、理想通りには運んでいない。三回忌の席では改革の意志を引き継ぐ決意が語られた。
振り返れば、中坊さんの取材は日弁連会長だつた一九九一年秋にさかのぼる。当時、中坊さんは日弁連の活動と自分が掲げる司法改革の理念をメディアに理解してもらおうと、新聞社の論説委員らと毎月一回、懇談していた。その顔ぶれの一人だつた先輩の溢澤重和論説委員(当時)から紹介されて、縁がつながつた。中坊さんが永年、司法に携わってきた生涯を総括する書物の出版を希望し、その作業の手伝いを、という指名だつた。
その頃は、司法取材の現場か一らは離れていたが、社会部のデスクワークの合間に会長室を訪ね、関係者に取材して、「強きをくじき司法改革への道」(同、九二年)が出来上がった。以来二〇年余り、森永ひ素ミルク中毒事件を契機に、弱者に寄り添う弁護士としての姿勢を貫き、国民の立場に立って喧嘩もいとわず行動してきた姿を、すぐ近くで見てきた。

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初笑い 文枝のその目笑わない
(2017,01,08)    八日
桂文枝新春特撰落語会を有楽町の朝日ホールで。「天国へのメロディー」と「抜け雀」。さすがに芸歴五〇年。存分に笑ったが、三枝時代からの「新婚さんいらっしゃい」でも、その目は笑っていない。

雑煮椀 七日過ぎても飽きもせず
(2017,01,09)   九日
今月はずっと餅を食べる。雑煮が終われば、焼いて、黄な粉やくるみや砂糖醤油など。徳島で育った子供の頃は、餅をつく日が楽しみだった。餅にあんこをくるんで。

香梅と 書初めの筆走らせて 河彦

住専、豊島、司法改革-4

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

×       ×       ×
「しだれ藤 中坊さんの三回忌 河彦。
中坊さんが生前に用意したご夫婦の墓は、JR奈良線玉水駅近くにある。朝、弁護士、元銀行員、警察・国税関係者、元記者計一四人で墓参り。マイクロバスで京都市内に移動して、中坊さんの旅館、御殿荘で三回忌。奥様と娘さんを囲んで、思い出話とそれぞれの決意」
これは、豊島訪問の約一か月前の今年五月九日、京都に出かけ、中坊公平さんの三回忌に出席した際、自分の俳句ツイッターに書き込んだ内容。昨年の五月にも、一周忌に合わせて京都府一井手町のお墓を訪れ、線香をあげて冥福を祈り、今回は二度目の墓参り。参加した一四人は、元新聞記者を除くと、中坊さんが整理回収機構の社長として住専の債権回収に全力を挙げ、その後、司法改革の推進にあたつて、側近として活動を支えた人たち。
最高裁事務総局の局長や東京高裁幹部も参列。
弁護士一九年目という、参加者の中では若手の弁護士、川村百合さんは、司法改革に込められた思いを中坊さんから数年前に聞いた縁で、初めて参加した。
墓前には 「顕正院巌馨隋順公道居士」と記載された記帳用の和綴じの冊子が用意され、最初のページのトップに香川県・豊島の安岐さんや中坊事務所の事務方を長年、支えてきた高津功さんの名前が、昨年八月三日の日付で記載されていた。高津さんは月命日の墓参りを欠かさず、記帳名簿によると、安岐さんも直近の命日に訪れている。
中坊さんの実家は、墓地からそれほど離れていない玉津国神社から坂道を下ったところにあり、いまも 「中坊」 の表札がかかる。敷地は葡萄畑なども含めて四〇〇坪ほどあるだろうか。無人だが、庭などもきちんと手入れが行き届き、この目はさくらんぼが紅い実を着けていた。神社の脇には枝垂桜の大木があり、昨年は野生のサルが訪問客を驚かせた。
一行はマイクロバス二台に分乗して、京都市内に向かい、一時間余りで、いまは中坊さんの娘さんが経営する左京区の旅館「聖護院御殿荘」へ。三回忌の食事会が開かれた大広間には、笑顔の遺影のほかに、中坊さんの活動を記録した十四、五枚の写真が飾られた。

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 香梅と 書初めの筆走らせて
(2017,01,03)
北野天満宮。主に子供たちを対象に書初めの場が設けられ、筆と半紙を買って飛び入り。菅原道真にならって、「香梅」の二字を即興で。書道クラブ新年会に向けて、宿題の手本を師匠の友野浅峰さんから貰って、一念発起。

 

清水に キモノレンタル初詣
(2017,01,03)は、レンタルキモノの看板。着付けしてもらったばかりの着物姿で清水の舞台に立つ若い女性たち。デザインも色もいかにも安っぽいが、外国人観光客も含め、これも古都の記念か。自撮り姿も。

若水や 空也が招く坂の道

明けましておめでとうございます。

本年もツイッター俳句を宜しくお願いします。

高尾 義彦

 

住専、豊島、司法改革-3

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より
生前は一体となって苦労をともにしてきた中坊さんに、最近のだらしない自分を責められていると痛切に感じて、以来、酒を断つことにしたという。「なんにも言わず、じっと睨まれているようで」。安岐さんが最初にこの話を打ち明けてくれたのは、この一か月ほど前に上京した時だった。ビールで乾杯しようと声をかけたら、烏龍茶を手に取った。屈強な身体つきの安岐さんが「烏龍茶で乾杯」を貫く姿には違和感があったが、禁酒はまだしばらく続ける決意が表明された。

翌日は、廃棄物撤去の作業が進む現場を案内してもらった。参加者はヘルメットにマスク、足元は長靴姿で、あちこちに汚染水が溜まった大きな穴があき、一部にドラム缶などの廃棄物がそのまま積み上げられた現場を歩き、目の前に、冒頭に記した光景が広がっていた。確かに以前に比べれば、廃棄物の捨て場は大きくえぐり取られ、その限りでは処理が進んでいるのだが、汚染地中のどの深さまで及んでいるかは、今後の調査を待たなければならない。
中坊さんは生前、淳子夫人を伴って何度か、島を訪れている。夫人を仕事の現場に同行することはめったにないことで、美しい島を取り戻す目を目指して、困難な仕事に挑んだ成果をいつ′か二人で確認したかったのでは、と島民らは推測する。一昨年5月3日に83歳で亡くなり、その夢は実現しなかっただけに、安岐さんたちは、このままでは終わらせない、と決意を新たにしている。
島の住民が育ててきたオリーブは昨年の収穫で、上質なオリーブオイルを生産出来るまでに実績を積み、島の土産物店に置かれている。この夏はオリーブの実を予約販売する計画も動き出している。二十数年に及ぶ島民の運動を心に刻み後世に伝えようと始めた「島の学校」は、当初の予定では十年で終了するはずだったが、現状を踏まえて今年の8月にも実施することになり参加者の募集を始めた。
島を離れる快速船から島を眺めながら、「豊島」を過去のものにしてはならないと、自分に言い聞かせた。自宅マンションのベランダには、豊島から運ばれたオリーブの木が育っているが、そのオリーブに託して、ささやかにでも豊島の人たちを支援できればと願う。

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若水や 空也が招く坂の道
(2017、1、3)      三日
元日は六波羅蜜寺へ。若水は元日に初めて汲んだ水。梅干しと昆布で健康長寿を祝うお茶を味わう。連れ合いの知人はよくこの寺に来て空也上人の像に手を合わせていた。

古稀の年 年賀の言葉 やや長く

     謹賀新年

本年も宜しくお願いします。

高尾 義彦

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古稀の年 年賀の言葉 やや長く
(2015元日)
この句は、五日から始める連句九四巻目の発句に用意した。小学生時代の友人二人と歌仙古稀百巻達成の目途が立つ段階に。日々の楽しみとある種の緊張感が持続力に。

 

住専、豊島、司法改革-2

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 公害調停成立時の計画では十周年の二〇一〇年春に産廃撤去は終わるはずだった。現場から廃棄物を運び出し船で隣りの直島に送って無害化するスキームだつた。しかし実際には予定通りには処理は進まず、さらに、当初推定の六〇万トンどころか九二万トンもの廃棄物(汚染土壌を含む)が存在することが判明して、計画は二度にわたって見直された。現在までに八一%を処理したものの、最終期限は改めて二〇一七年三月と設定された(最終的に香川県は二〇一七年三月二八日、豊島からの搬出は終了と発表した。総量九〇万八千トンで、汚染地下水の無害化や跡地の開発計画などが課題として残る)。
このため 「花を見る会」 は十周年の時も今回も、みんなが明るい笑顔で迎えることは出来なかつた。私たちが訪れた当日、島では廃棄物完全撤去後を見据えて、跡地七㌃の活用策などを話し合う住民の会議が開かれた。
「原状復帰」の願いを胸に、島の将来像が議題になつたが、その前提として、本当に完全撤去が実現するのか、疑問視する見
方が広がつていた。
テシマリゾートのレストランで運動の経過報告や島が抱える課題を安岐さんたちから聞いているうち、安岐さんの「禁酒宣言」 が話題になつた。ここ数年、撤去作業の進捗状況は満足できるものではなく、一丸となつて公害調停を勝ち取った住民たちも時間の経過につれて、それぞれの思惑の違いが表面化する。
二十数年闘い続けてきた住民運動は必ずしも高揚した状態を持続できていなかつた。
悶々として日々を送っていた安岐さんは、一晩でウイスキーの角瓶を空けてしまうほど酒でストレスを紛らす日が続いた。昨年一月四日もビール、ウイスキー、日本酒を呑んでうとうととしていた早朝、ふと目覚めると誰かがそばに立っている気配がした。それが亡くなつた中坊公平さんの姿だと気づいた瞬間、酔いが一瞬にして醒める思いだつた。何も言わずにこちらを見つめている中坊さんの姿に大きなショックを受けたという。

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「獺祭 日本酒」の画像検索結果

ふく食べて 福を祈って年の暮れ
(2015元日)
ホテルで紹介された天神の居酒屋で、ふくの刺身や唐揚げを頼み、日本酒は獺祭。昼間、唐津から名護屋城跡を見物、秀吉の権力と晩年の愚かな執念が形をとつた広大な城跡を歩く。黒田長政陣跡など官兵衛ドラマ追体験も。

指走る リスト・シヨパンに聖歌へと

住専、豊島、司法改革-1
中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻

 深い緑に覆われた瀬戸内海の美しい島は、西側のそこだけがばっくりと大きな傷口を開け、海側には長いフェンスが張られている。現場を歩くと、ひん曲がったドラム缶やタイヤなどが地面からはみ出し、油だろうか、緑や黄色の液体がにじみ出ている。
産業廃棄物の不法投棄で「ごみの島」と呼ばれた香川県・豊島は、いまも廃棄物処理作業が続く。
公害調停成立から15周年の15年6月6日、岡山県の宇野からフェリーに乗船して5年ぶりに豊島を訪問した。船上からも「大きな傷口」は見えて、20年近く前に住民側弁護団長だつた中坊公平さんらの運動を取材するため、廃棄物の上を歩いた記憶が蘇る。
家浦港で、今回の「島の花を見る会」を企画してくれた産業廃棄物対策豊島住民会議事務局長・安岐正三さん、熊本学園大学・中地重晴教授らに迎えられ、マイクロバスで宿舎のテシマリゾートに向かう。参加者は学者、弁護士に新聞記者などで、濃淡はあれ長く豊島に関わってきた人たち。中坊事務所から弁護団に加わり今は独立したもののNPO法人「瀬戸内オリーブ基金」の理事長を務める岩城裕弁護士も加わっていた。途中、中坊さんらが植えたオリーブの木を確認、白い花や大きく育った様子に15年の歳月を改めてかみしめた。
「花を見る会」は公害調停が成立した2000年6月、廃棄物が撤去される十年後に、みんなで豊島に集まって締麗になつた自然の中で「花見」をしようと約束したことが発端。拙著「中坊公平の追いつめる」(毎日新聞社刊、九八年)では中間合意までの経緯を報告し、その中で「島で花見といえば、桜ではなく、島三田に咲き誇るツツジを愛でて酒を酌み交わし、持参の弁当を楽しむこと」と紹介した。
つづく

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訃報読む 賀状の宛名書く前に
(2015/12/15)
在日韓国人二世の映画監督、呉徳沫さんの訃報が毎日新聞に。取材でお付き合いし、年賀状のやりとりを続けてきた。七四歳。喪中の葉書はすでに四〇枚近く。今年はご本人が亡くなつたケースが目立つ。

指走る リスト・シヨパンに聖歌へと
(2015/12/14)
ピアニスト、近藤和花さんのディナーショーを、昨夜、千代田区のレストランで。彼女の車のナンバーはリストの生れた年。超絶技巧を披露。我々はその前に東京交響楽団のコンサートをサントリーホールで。

雨しとど 傘に銀杏の葉を受けて

兵馬俑師走を前にゆつたりと
(2015/12/29)
「始皇帝と大兵馬桶」展を上野の東京国立博物館で。兵馬俑のほか、始皇帝の魂を運ぶために作られたという銅車馬の複製も。二000年以上前の秦王朝を実感した。

総会の師走迎えてまた一歩
(2015/12/07)
勤め先のインキ会社は先週四日が株主総会だった。就任後初の赤字決算で厳しい質問もあつたが、役員人事案などが承認され、あと一年、代表取締役を。新聞事業を支える会社として黒字経営を目指す。

雨しとど 傘に銀杏の葉を受けて
(2015/12/11)
昨夜はお酒の席をふたつ。一つは、毎年師走に「菊姫の会」と名づけて門前仲町・久寿宋に集まる編集局仲間の呑み会で、女性三人を含め一〇人。もう一七回目。二〇回目の実現を、と盛り上がった。

窓を打つ 雪のつぶてに目を覚まし

 

時過ぎて 桜紅葉の道たどる
(2015・11・21)
新聞社の後輩を見舞いに、飯田橋の逓信病院へ。帰りに、四谷あたりまでのびる桜並木の土手際を歩く。毎年、岩見桜を愛でた思い出が甦る。門前仲町でも、大横川の両岸に続く桜並木が紅葉している。

窓を打つ 雪のつぶてに目を覚まし
(2015・11・27)
青森へ新幹線で日帰り出張。盛岡駅に着く頃、窓をたたく音で居眠りから目覚めた。雪というより氷雨?気候の変化に驚く。青森駅は少しひやっとする寒さ。それでもこの季節にしてみれば、寒くないほう、とか。

アズナブールの 歌が聞えるこえる冬のパリ
(2015.11・28)
シャンソン歌手、シャルル・アズナブール。同時多発テロに対する抗議集会を伝える新聞記事に、名前があつた。九一歳。九三歳の作家瀬戸内寂聴さんが、安保法案反対の集会に駆けつけた姿が重なる。

アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-4

アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-4
=「人生八馨」一六年春季号・第六巻より

 その後の出品作は、弁護士の故中坊公平さんの言葉から「現場に神宿る」(〇八年)、「竹」一文字と拙句「初蝉や 松山城の 一の門」(一一年)、「花有清香 月有陰」(一四年)。
前回は自費出版したツイツター俳句集「無償の愛をつぶやく」の題字も、おまけで展示してもらつた。次回の一七年にはどんな作品をものすることが出来るか。
冒頭に登場してもらつた金子さんとは湖心杜書展がきっかけで知り合った。〇八年に出版された彼女の著書「インキの魔法」 (幻冬舎ルネッサンス刊)一と、その年に目黒美術館で開かれた個展を、新聞紙上で紹介した。
パソコンやスマートフォンなどの発達で、若い人を中心に筆で和紙に文字を書く機会が減っている。自分では、季節の挨拶やいただきもののお礼など出来るだけ自筆(ただし万年筆)で、と心がけている。鳩居堂などの和紙の便箋に、水茎の跡も麗しい毛筆の便りをいただくのも嬉しい。
和紙が果たしてきた役割や伝統をもっと大切にしなければ、とそのたびに実感している。

寒の水 楮晒して和紙の里  村彦

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うす紅く 椿の蕾ふくらんで
(2015・12・03)
 ベランダにある椿の曹が、紅く色づいてきた。長崎県・五島列島から送られてきた玉之浦椿。最初に蕾に気づいたのは九月だったから、ゆつくりとした成長ぶり。調べると、花弁は紅と白、二色の模様のようだ。

アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-4

アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-4
=「人生八馨」一六年春季号・第六巻より

ユネスコ(国連教育科学文化機関)は二〇一四年一一月、小川町の「細川紙」、岐阜県美濃市の「本美濃紙、島根県浜田市の「石州半紙」に代表される日本の手漉和紙技術を無形文化遺産に登録した。父の血脈の中に流れる和紙への憧憬とこだわりが、自分の中にも受け継がれ、それが客観的な評価を受けたように思えて、嬉しかつた。
翻って、自分と和紙との直接的な関わりは、といえば、十数年前から書道をたしなむようになって、和紙へのこだわりが生まれてきた。
毎日新聞書道クラブで月三回のペースで筆を持ち、下手ながらに、定期的に作品展に出品させてもらった。練習用の和紙は、日本橋三越前にある島根県のアンテナショップで「石州半紙」を買い求めた。アワガミファクトリーの藤森さんからいただいた和紙を色紙代わりに使って、下手な俳句を認めたりしている。
書道クラブの友野浅峰先生が主宰する湖心社書展は三年に一回、銀座画廊(名鉄メルサ八階)で開かれ、〇五年に初めて出品した作施品は、半紙に「崇山峻嶺」の四文字。王義之の「蘭亭序」にある言葉で、当時は日々、二八行三二四文字ある蘭亭序と取り組んでいた。

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フランスの パンの春りよ秋の朝
   (2015・10.1)

パリで買ったパンをまだ食べている。パンとバター、チーズが美味しい国。郊外に広い農地が広がり、農業大国・フランスを実感した。日本も豊かな食を自前で、と願う。