特別寄稿
寸又峡を遠く離れて-3
=「人生八馨」2017年正月号・第九巻
高尾 義彦
ここで話がやや横道にそれるが、事件発生の夜、静岡支局では金被告が寸又峡に入ったことをきちんとフォローすることが出来なかった。他紙が「ふじみや旅館」に電話を入れて本人との一問一答形式で翌日の朝刊に報じていたのに、事件後の足取りを報道できなかつた。そのためこの事件に触れることは支局内でタブー扱いになっていて、デスクから「裁判の原稿はいらない」「法廷に行かなくてもいい」とまで言われた不幸な時期があつた。
とは言っても開廷日ごとに取材は続けなければならないし、普通の刑事事件以上に、証言などで何が飛び出すかわからない。やむなく法廷が開かれる日は、事前に休みを取ったことにして、実際には静岡地裁に出かけて、夕方そっと原稿を出すため支局に戻るようなこともあつた。
裁判の途中で衝撃的な事件が起きた。主任弁護人の山根二郎弁護士らが七〇年四月、県警記者クラブに飛び込んできて、金被告が顔のそばに包丁を掲げているモノクロ写真を記者たちに示した。未決拘置中の静岡刑務所で面会した際の写真で、やすりやライターなども所持し、独房の中で包丁を使って料理するなどの 「特別待遇」 が判明した。
看守が気を使って特別な差し入れなどを黙認していたわけで、差別と裏腹の対応だった。
事件は検察庁が捜査を担当し、特別待遇をしていた看守を割り出した。その頃は担当の検事宅を夜回りして捜査の状況を取材する日々で、ある日、検事が看守の名前をもらしてくれた。「K看守」と特定して社会面に原稿を書き、小さな特ダネになつたが、その記事が掲載された朝刊が配達される前に、この看守は自殺していた。
寸又峡温泉には、裁判の途中に行われた現場検証の際に、裁判官や検察官に同行して一度だけ訪れた。旧式のSL列車が走り、秋には紅葉を愛でる観光客でにぎわうが、そんな余裕はなかつた。事件の舞台となつた旅館は一時期、資料館を設けて当時の資料を公開していたが、いまは廃業している。
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六年目 津波のあの日春寒く
(2017/03/10)
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ハクモクレン 川風に散る昼下がり 一九日
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