手古舞伝える辰巳芸者-2
高尾 義彦
「人生八威聲」2018年10月
秋季号・第16巻より
門前仲町は木場に近く、30年代は復興景気で、永代通りと大横川にはさまれた二本の路地に添って料亭が最盛期には45軒ほど並び、芸者は125人もいたという。木材業者を中心に兜町の証券会社、魚河岸などの客で辰巳芸者は引く手あまた。特に材木業者は地方から上京した荷主を料亭で接待し、話がうまく運ぶと翌日もお座敷に呼んでくれて、「何もしなくて寝っ転がつてていいよ」と玉代だけはつけてくれるということもよくあった。
夜11時頃までお座敷を務めると、ふところはご祝儀で一杯に。仲間と一緒に深川不動尊の前からタクシーで六本木などに遊びに行き、「キャンティー」や「香妃苑」で美味しいものを食べたり、芸能人に出合って胸をときめかせたりした。帰りもタクシーで、小遣いには不自由しなかったという。
その一方で、踊りや三味線の稽古は厳しく、初めてお座敷に出て一週間目で泣かされた体験を忘れない。客が小唄を歌って、それに合わせて踊るように先輩から指示されたが、艶っぽい替え歌でそれまでの座学では聞いたことがなく、「知りません」と立ちんぼしてしまい、泣いて帰ってきた。慰められるかと思ったら、「泣いて帰って来るのなら、明日から出なくていい」とたしなめられた。
丑井さんが所属する置屋は、ほかと比べて格上だったため、やっかみからいじめられることもあった。「他所の置屋だったら、何でうちの子いじめるんだ、と怒鳴りこむところだが、それを言ってくれなかった。それから人に負けないだけ踊りの数を増やそうと発奮して、人の三倍練習した。私自身負けん気が強かったので、負けるもんかとここまで頑張ってきた」と丑井さん。
「泣いて帰ってくるなら、と言った姉(従妹)を何年も恨んだ。でも、後年、『お前にひとつだけ謝つておきたいことがあ
る。厳しい稽古で、青春時代を私が潰した』と言われて、恨みは全部晴れた」 後に三本の指に入る「踊りの名手」と呼ばれるようになったのも、この体験があったから。一本立ちして十年ぐらいして、ようやく実力が認められるようになった。意地悪をされた先輩からは、「私が三味線を弾けるものを踊ってね」と一目置かれるまでにった。
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梅描く しっかり筆を握りしめ
(2017/1/27)
高校先輩の画家、今獅々貴美子さんから「梅」の小品が届いた。インキ原材料の取引先、ウメモトマテリアルの梅本隼三社長から、左手を描いた彼女の初期作品を所有、と聞き、連絡。「出会いに感無量。苦しさをこの手で乗り切ってみせると描いた作品」。
春隣り ポストに託す人の縁
(2017/1/27)
今獅々さんの詩画集「原風景」を梅本社長に送るため、大川工業団地のポストへ。今獅々さんへの葉書も。奇跡的な偶然の仲介役。
もろみ買う 寒さゆるんで京の朝
(2017/1/28) 二八日
京都御所に近い澤井醤油本店。子供の頃、温かいご飯に乗せて食べた。ある意味では貧しい食品だけど懐かしい。高校同窓会の近畿総会で京都に泊まって大阪へ。