洞窟に 生命(いのち)感じて温かく

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手古舞伝える辰巳芸者-3

高尾 義彦
「人生八威聲」2018年10月
秋季号・第16巻より

 かつては目の肥えたお客さんも多く、自ら芸事をたしなむ旦那衆もいた。正月には獅子舞が恒例で、辻井さんもお面、太鼓、鉦の三人とともに獅子を演じる。ある年、お手玉に獅子がじゃれる場面で、「それでは猫だ、獅子になってない」と厳しく叱責された。悔しくて、一晩中、鏡台の前で何度も練習して次の機会に踊ると、「今日は、獅子になっていたぞ」と誉めてくれた。
辰巳芸者の由来は、富岡八幡宮や深川不動尊がある深川地区が江戸城の辰巳、つまり南東に位置することから生まれた。色を売る芸者とは区別して、誇り高い辰巳芸者は一流になると羽織を着てお座敷に出ることが許され、江戸時代以来、「羽織芸者」と呼ばれてきた。足袋ははかず素足で、親指と小指に、紅を塗る。羽織は「粋」の代名詞でもあつた。
丑井さんは、大卒サラリーマンの月給が一万円から一万二千円の時代に、一着一七万五千円で衣装を自前で新調した。「粋と気っぶのよさが、辰巳芸者の信条」と丑井さん。
しかし、昭和四十年代にかけて隆盛をきわめた深川の料亭文化も、バブル経済の崩壊とともに、衰退の時期を迎える。
隅田川河口の材木集積場だつた木場が埋め立てられ、昭和44年に荒川河口「新木場」が設けられると、木場の旦那衆の足も遠のき、辰巳芸者の人数も減ていった。
丑井さんは昭和58年、置屋の名前をそのままつけた料亭「君代紫」を開店、お座敷に呼ばれて踊りや三味線、鼓を披露する生活にピリオドを打つ。辰巳芸者はそのころすでに二〇人ほどに減り、料亭も四、五軒しか残っていなかった。その後10年も経たないうちに辰巳芸者は姿を消し、往時を語ることが出来るのは、丑井さん一人になつた。「一力」「幸月」などの有名料亭もいまはなく、かつての料亭街では「金柳」が昔の姿を偲ばせる。

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洞窟に 生命(いのち)感じて温かく
(2017/2/2)
 寒風の中、「ラスコー展」を国立科学博物館に見に行った。「クロマニヨン人が残した洞窟壁画」と題して、実物大の壁画(レプリカ)を展示。二万年前に制作されたと推定される壁画を少年が発見した偶然。

恵方巻 北北西は我が恵方
(2017/2/4)
佃にある我がマンションは北北西向きで、陽当たりが悪い。地下鉄月島駅に近い割には静かで、足の便はよく、終の棲家として満足しているのだが。昨夜は人形町寿堂の豆。

チョコレート  柚子の香りを包み込み
(
2017/2/7)
ヴァレンタインを前に柚子をチョコでくるんだ一品を栄美子さんに貰った。仙台の居酒屋「源氏」の女将・髙橋雛子さんの筑前琵琶発表会が東京で開かれた機会に。叶匠壽庵の説明書きに「柚子の花言葉は恋のため息」と。