アワガミ今昔・「和紙」にこだわる-2
=「人生八馨」一六年春季号・第六巻より
金子さんがバルセロナで出遭った店も、こうした海外展開の一環で、藤森さんにメールで伝えると「心にかけていただき、嬉しい限り」と謙虚な返信が来た。金子さんには以前、ノワガミファクトリーを紹介したことがあり、仲島の片田舎とバルセロナの街が、想定外の偶然の縁でつながった。
実は、我が家の祖先は永らく、紙漉きを業としていた。それを証明するものとして「高尾家古文書」が存在する。自分の読解力では読み解けない代物だが、伯父で郷里の町の教育長などを務めた鹿児島進七氏(故人)が解読して残してくれた文書がある。
その冒頭を引用すると 一柳楢紙の濫版を尋ぬれば、忌部の遠祖神代天日鷲命、当粟国に降臨し玉ひ、麻穀の二種 27
を作り始め荒妙和布を織って衣服となし、又楢を以て紙を漉始め玉ひしは、即ち此麻植郡川田村(往古椿畑村)部分川田山内椿植、紙漉、州打(略)にこそ有りける。忌部日鷲命鎮座ます高越山は木綿麻山又衣笠山とも云い、清浄潔斎の地にして、三宝鳥居り、萬年草を生じ、阿波国第一の霊峰たり。是に於て往昔、聖徳太子の命を受け、記和という人紙漉業を掌りしも、尚忌部目鷲命の流れを慕ひ、今の
阿波国へ下り、此楢畑村忌部の頭官衣笠宇内の家に止り、紙漉業を研究し、数種の紙を漉出し夫より、追々繁昌して他国にも名ある紙を漉く事とはなりぬ。筍も吾家の義は忌部の頭官衣笠宇内の末商にして世々紙漉業を司り、
其道に鍛錬し、中古国君小笠原氏を始め、細川氏、三好氏に至る椿の用紙漉職長の名を得しものは、吾中興の祖先、天文年中尾崎次郎翁迄の履歴に候也。
古文書によれば、先祖は「忌部族」の一員とされ、「阿波富士」の名を持つ高越山(こうつざん、一一二二・六㍍)の山麓一帯に居を構えていた。この古文書に記載されている「荒妙和布」は 「あらたえ」と呼ばれ(鹿服とも書く)、歴代の天皇の即位にあたって必ず麻を織った布を朝廷に献上してきた歴史がある。
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宮古から 少し小ぶりの秋刀魚來る
(2016・10・19)
岩手県宮古から送られてきた秋刀魚は例年に比べ、やや小さかった。今年は中国漁船の影響もあり不漁。秋刀魚といえば酢橘(すだち)だが、酢橘の返信メールに一人だけ、「カボスを有難う。何故だろう。