特別寄稿第2弾
講演「いま、なぜ田中角栄なのか」-3 高尾義彦
=「人生八馨」一六年秋季号・第八巻掲載から抜粋
「高官逮捕」を予測する朝刊を印刷する輪転機は回っていましたし、我々はこの「異変」をカモフラージュと受け止め、プラスの判断材料と考えました。事実、吉永さんは当日の早朝に裏口からひそかに検察庁に入り、私が午前六時過ぎに特捜部の部屋の前に行った時には、電話で出先の検事に指示する声が聞こえ、七時前には東京地検トップの検事正も裏口から登庁してきました。
ロッキード事件では、捜査が成功しなければ、特捜部は二〇年は立ち直れないという危機感が検察幹部の中にもありました。そのため厳密な秘密主義が徹底していて、それは主任検事の吉永さんの方針だったわけですが、我々は情報戦争に勝てなかったということです。同時に、それまでの特捜部の捜査では、疑惑解明のため(身分の)下から身柄を確保し最後に頂点に達する手法が一般的でしたが、今回は最初からトップを逮捕する手法に意表を突かれたとも言えます。
当時は徳島県出身の三木武夫さんが首相で、田中元首相が金脈問題で退陣した後、政権に就いたわけですが、派閥の力学としては弱小で安定政権ではなかった。特捜部は「TANAKA」の名前が記載された米国の極秘資料を四月十日に入手し、このままロッキード捜査が進むと田中元首相など自民党主流の実力者に捜査の手が及びかねない、と三木首相の退陣を狙った政界の動きが大きくなりました。
新聞としては、三木さんが退陣すると、事件の全容解明が難しくなり、それは国民の利益にもならないと、紙面で「三木降ろし」に反対するキャンペーンを張り、なんとか元首逮捕の日までこぎつけたわけです。新聞社は、社会部と政治部という別々の組織が、役割分担していますが、このキャンペーン、は社会部が主導権をとって進めました。
ロッキード事件の捜査は約1年で終わり、翌年1月から東京地裁で裁判が始まりました。
経過はレジュメをご覧ください。
つづく
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母の日に母の姿のいま昔 五月一四日 お盆なので・・・
母の十三回忌も過ぎて、花を贈ったり声をかける人はいない。母から子へ、子から孫へ、孫も母親になって、それぞれに母の姿がある。長い時間のつながりの中で、一人一人の幸せを願う。まだ二歳前後の頃、母と一緒に撮った写真を飾り、時々、手を合わせる。