「天皇譲位と忌部族」-1

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忌部の地 歴史語って濁り酒

 特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-1

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第一一巻掲載)

「古代文化の揺藍地 忌部(いんべ)の里り丘の上(え)に……」。母校である徳島県立川島高校の校歌には、こんな歌詞がある。在校当時、入学式や卒業式で歌い、最近では同窓会の締めに必ず歌われるが、卒業後五〇数年、「忌部」の意味を正確に知っていたか、ということになると、心もとない。
「忌部」とは 「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」を意味する。歴史をひもとけば、「阿波忌部」と呼ばれる氏族は、弥生後期から古墳前期(三~四世紀)にかけて四国・吉野川流域に勢力を展開した。大和朝廷の祭祀を司り、農業土木技術、衣食住の生活文化技術を関東などに広め、最近の研究では、古日本文化の源流を形成したと位置づけられるようになつている。
その祖神は「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」として「古語拾遺」に記されている。
「天太玉命」は古事記、日本書紀にも登場し、天照大神が岩戸の中に姿を隠した「天の石屋戸」神話でも重要な役割を果たしている。さらに、かつて「紙漉き」を業とした我が家の古文書には、天太玉命に従う四柱の神のひとつとされる天日鷲命(あめのひわしのみこと)により製紙技術がもたらされたとの記載があり我が家も先祖は忌部であつたと推定される。
その忌部の伝統を今も守る「三木家」の住宅を四月二日に訪ねた。剣山に近い木屋平村(標高五五二㍍)にある「三木家住宅」は、国指定の重要文化財となつている。木造茅葺屋根の建物の骨格部分の造成は、江戸時代初期にさかのぼり、建築後四〇〇年を経過していると、炭素年代測定で推定されている。