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はじめに 5 「死に方格差社会」の到来
はじめにー5 「死に方格差社会」の到来
「2025年問題」というのをご存じだろうか? さらにその先には「2035年問題」というものもあるが、 これが今後、私たちの「死に方」に大きな影響があることをご存じだろうか?
私は1947年生まれなので、団塊世代である。 現在、私たち団塊世代にはほとんどが高齢者(65歳以上)となって、 やがて10年から20年で、 日本人の平均寿命からいって死期を迎えることになる。
2025年。 この団塊世代の中核が75歳を超えて後期高齢者となり、 次々に病院や介護施設に入る必要が出てくる。 これが「2025年問題」で、 このとき、病院の病床数や介護施設は圧倒的に足りなくなる。
この状況を見越して、 政府は2014年度の医療報酬の改定と併せて、 「入院を減らし在宅を重視する」方針を明確に打ち出した。 簡単に言うと、
「これからは病院では看取りません。自宅で看取ってください」ということだ。
こうなると当然だが、介護産業は、団塊世代の去った後の需要減も見越して、 設備投資を減らしていくだろう。 つまり、あなたが死期を迎えるころには、 面倒をみてくれる病院も介護施設もないということになる。
もちろん、富裕層の方々は、十分な資金によってこの問題を乗り越えられる。 しかし、年金で暮らす一般層にとっては厳しい現実がやってくる。 まさに「死に方格差社会」の到来と言っても過言ではない。
つづく
はじめに 4 誰でも「死」は避けられない
私の周囲を見渡すと 「終活」という言葉はあっても、それを本当に実行している人は意外に少ない。 とくに、歳をとっても健康で仕事を続けている人は、大病をしたりしないかぎり、 死を意識することはほとんどないようだ。
これは本人ばかりか家族にも言えることで、 ご自身の親が元気なら、終活など口に出す雰囲気がはばかれる雰囲気がある。
しかし、 どんなに健康な人でも必ず死ぬ。 死は避けられない運命だ。
しかも、その死に方を私達は自分で選べない。 ガンで死ぬのか心臓病で死ぬのか、 自然に衰えて老衰死するのかもわからない。
また、 死に場所も、入院先の病院なのか、施設なのか、自宅なのかもわからない。
さらに大きな問題は、 死に方がその時代の社会のありかたの影響を大きく受けることである。 いい死に方をしたいというのは万人共通の願いであっても、 医療、福祉を含めた社会全体のシステムのなかで、 私たちは最期を迎えなければならないのである。
現在、私たちの死に方は、 日本社会の変化のなかで大きく変わろうとしている。 ひと言で言うと、今後、私たちは看取ってくれる家族がいようといまいと、 ほぼ自宅で死ななければならない運命にある。
「自宅で死ねるなんて幸せではないですか?」 と言われる方が多いが、じつはこれからの「自宅死」は いままでの自宅死とは大きく異なるのである。
{富家孝著・SB新書「死に方」格差社会より}
つづく
はじめに 3 自分の死をイメージする
はじめに 3 自分の死をイメージする
このような体験をしながら、改めて現代の医療を考えると、 見逃せない問題が山積していることに気がつく。
日本がいつのまにか、本当に高齢化社会になってしまい、 かつてのどんな時代よりも「死に方」が私たちにとって大きな問題になったことである。 だから、最近では「終活」が流行語になり、 「どうやって最期を迎えるか」というテーマが メディアでも盛んに取り上げられるようになった。
かつて死は私たちに自然に訪れ、 家族を含めた共同体の中で当たり前のこととして処理されてきた。 しかし、いまや私たちは死を自然に迎えられなくなった。
死ぬことも自己責任であり、どう死んだらいいのか、 生前から自分自身で考えなければならないようになった。 それが「終活」という言葉に如実に現れている。
そこでお聞きしたいが、 あなたはご自分の終活を行っているだろうか?
ご自身の死をはっきりとイメージできているだろうか?
{富家孝著・SB新書「死に方」格差社会より}
つづく
はじめに 2 もしかしたら私は死んでいるかもしれない。
私が自分の死を意識するようになったのは、 前記したように60歳を超えてからだが、 3年前、心臓のバイパス手術を受けてからは、 その意識がいっそう高まった。
2012年の暮れのこと、 私は胸に痛みを覚え、また、背中の痛みも感じた。 じつは、この8年前にも同じような痛みを感じて、 懇意にしている南淵明宏ドクターに連絡して、 心臓カーテル療法で冠動脈を正常化してもらったことがある。
だから、このときもまた心臓と直感して彼に連絡し、 大崎病院ハードセンターに急いだ。
南淵ドクターといえば、 「ブラックジャック」によろしく」に出てくる 心臓外科医・北三郎のモデルになった医師として有名な心臓外科医である。
検査してもらうと、冠動脈の主幹枝が90%詰まっていた。 それでも、心臓バイパス手術を受けて、ことなきを得た。 冠動脈が詰まることは突然起こることがあり、手遅れになることも多い。
幸い私は医者であるうえ、絞約感(こうやくかん)が2回目だったため、 懇意にしている南淵氏のような腕利きの医者の手術をすぐに受けることが出来た。
しかし、 もし、一般の方が胸部に絞約感を覚え、 それで近所の医者に行ったとしても、そのときに症状が治まっていれば、 助からないケースがままある。 とくに心電図検査で異常が認められなければ、 その日は、CTスキャン、心エコーなどの検査はほぼ行われない。
ところが、 その間に発作に見舞われて心筋梗塞を発症してしまうことは珍しくないのだ。
「もしかしたら私は死んでいるかも知れない」 「私はいったいどんなふうに死んだのだろうか?」
そう考えると、私にとって死がいままで以上に身近になったのである。
{富家孝著・SB新書「死に方」格差社会(本体800円)より}
つづく
はじめに 1 「人は思ったようには死ねない」
「死に方」格差社会
満足できる死を迎えるためには
富家 孝(ふけたかし)
はじめに 1
人は思ったように死ねない。
しかし、今後は 主体的に考えておかないといい死に方はできない。 医者を長年やってつくづく思うのは、 人は自分が思ったようには死ねないということだ。
若いときは自分が死ぬことなど考えもしないで、 患者さんの病気や死を見てきた。 医者だから、死は身近だったが、死を意識したことはなかった。
それが、60歳を超えてからは、 自分の死を次第に意識するようになり、いまでは、 どのように死んだらいいのかとよく考えるようになった。
私は医者としてはかなり特異な経験をしてきた。 代々の医者の家に生まれた私は、 当然のように医大に進んで進学して医者になったが、 独立心が旺盛だったために 開業医となり、いっときは病院経営者として 8つの病院やクリニックを切り盛りしていた。
しかし、 ビジネスの才覚はなく、あえなく倒産してしまい、 それからは医療にかかわるあらゆる仕事を経験した。
新日本プロレスのドクターをしたり、 さらに病院経営のコンサルタントや医師紹介業などもやり、 この間、ジャーナリストとして日本の医療のあり方を考えて メディアの仕事を続けてきた。
そうしながら、数多くの本を書かせてもらったが、 これからの連載はこれまでの私の主張とは趣を異にしている。
なぜなら「死」がテーマだからだ。
{富家孝著・SB新書「死に方」格差社会(本体800円)より}
つづく