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「胃瘻(いろう)」は人間の尊厳を侵しているのでは?

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「富家孝著・SB新書「死に方」格差社会(本体800円)」より。

「胃瘻(いろう)」は人間の尊厳を侵しているのでは?
いろう
話を尊厳死に戻して、私がたまに相談されることに、「入院先の医者に胃瘻を勧められたのですが、どうしたらいいでしょうか?」ということがある。
胃瘻というのは、口から食事が摂れなくなった患者さんに、人工的に栄養を与える方法だ。内視鏡を使って腹部に小さな口を造る手術を行い、そこから「胃瘻カテーテル」(チューブ)を使って直接胃に栄養を送り込む。
この手術は、慣れた医者なら30分もあればできる。胃瘻が勧められる患者さんというのは、たとえば高齢で痴呆が進み、食事を摂ると食物が食道から気管支に入って誤喋性肺炎を起こす可能性が高いと判断された患者さんである。
たいていの場合、介護施設や病院から、家族にこのように説明される。
「どうも膝下がうまくいっていません。このままだと肺炎を起こし、それが原因で死ぬケースも多いのて予防のために胃瘻をつくりましょう」 こう言われると、なるほどそうかと思い受け入れてしまうが、私は、よくよく考えるべきだと言いたい。というのは、胃瘻は、医者や介護施設側の勝手な都合で付けられるケースが多いからだ。
簡単に言うと、胃瘻をつくれば、患者の食事の手間が省ける。とくに、少ない人数で入居者を看ている場合、食事の世話は効率的に安全にできるようになる。さらに、患者の寿命は延びる。日本で胃瘻が普及したのは、これがもっとも大きな理由である。
もともと、胃瘻は高齢者の延命のために開発されたものではない。なんらかの理由で食事が摂れなくなった若い重篤患者のために開発されたものだ。それが、いつのまにか、簡単にでき、効率がいい.という理由で、高齢者に使われるようになった。
しかし、こうしたことは、医者や施設側からはあまり加配明されない。胃瘻を付けた後どうなるかの説明も少ない。
胃瘻の問題点は、付けた後にある。というのはいったん付けると止めるのが極めて難しくなるからだ。これは治療の一つだから、止めるとなると、よほど回復して食事が口から摂れるようになった場合を除いて、死期を早める。場合によっては「殺人」になってしまう。アメリカの場合は、裁判を起こせば止められると聞くが、日本ではそうはいかない。
これまで胃瘻を付けた方を見てきたが、長い間胃瘻を付けると、高齢者の場合、最終的には寝たきりで意識も薄くなり、手足の関節も固まっていく。そうして、最終的に亡くなったときは、やせ細って人間とは思えない悲惨な姿に変わる。また、死後は手足の骨を折らないと棺桶に入らなくなるというケースもある。
胃瘻の是非を考えるとき行き着くのは、「そのまま自然の寿命にまかせるべきか、まだ生きられるのだから人工的にでも延命をはかるべきか」という問題だ。患者さんを人間として尊厳するなら、医者自身が胃瘻を勧めることは慎むべきではないかと思う。
したがって、私は75歳を超えたら、「いくら胃瘻を勧められても拒否したほうがいいです」と言っている。もちろん、ご本人の意思によるが、その意思を伝えられない状態にあるときは、ご家族は積極的に止めることを選択すべきである。私が医者として言いたいのは、「自分の口で食べられなくなったら、それは人間としての自然の姿ではない。医者はそこで治療を止め、その方の最期をどうするかをご家族と十分話し合うべきだ」ということである。
日本と欧米の両方の医療機関に勤務した人間によると、日本と欧米では死生観が違い、その結果、介護に対する考え方も大きく違うという。たとえば、日本の特養ホームや療養病床には、寝たきりや車椅子の患者が多く、また胃瘻を付けた患者も多く見られる。しかし、欧米のそうした施設には、胃瘻を付けた患者はほぼいないという。


 映画『母の身終い』が問いかける安楽死

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映画『母の身終い』が問いかける安楽死

2014年、『母の身終い』というフランス映画が日本で公開され、一部の高齢者の観客を中心に大きな波紋を巻き起こした。上映終了後、しばらく席を立てない観客がいて、最近の映画では見られない光景が起こつた。実際、私も上映終了後、しばらく考えさせられた。
この映画のテーマは、もちろん「安楽死」である。それが、淡々と措かれている。観客の多くは「こういった死に方」があることを知らないので、そのことに衝撃を受けたようだ。
映画『母の身終い』 の主人公は、刑務所を出所した48歳の長距離トラックのドライバーのアラン。アランは母のいる実家に戻り、人生のやり直しを試みるが、あるとき、母が不治の病に冒されていて、自ら死期を選ぼうとしているのを知る。すでに母は、医師の薬物処方による安楽死を認めているスイスのNPOの会員になり、手続きを済ませていた。
映画では、一切のお涙ちょうだい式の描写を排し、母が旅立つまでの日常が淡々と描かれる。そして、その日が来たとき、アランは母をスイスまでクルマで連れて行く。そこは、「自死の家」と言われる施設。そこで、母は死ぬ意思を確認され、クスリを渡される。クスリは約40分の間に、服薬者を安らかな死に誘う。
こうして母の死を看取ったアランは、何事もなかったように、クルマでフランスに帰っていく。
スイスでは、2005年に「患者の権利及び生の終末に関する法律」が成立し、世界から終末患者を受け入れてきた。
これ・まで、自らの意思で死ぬ「自死」のためにスイスを訪れた人間は1000人を超え、日本人も数人いると聞き、私は驚いた。これを「安楽死旅行(デス・ツーリズム)」と呼び、その多くはドイツ人とフランス人だという。
映画では、NPO施設の女性が最後に「あなたの人生は幸せでしたか? と訊く。この質問に「人生は人生ですから」と答え、母は静かに、そしてあっけなく死んでいく。誰にも迷惑をかけず、自分の人生を自分で閉じる。
日本では、末期ガンなどで不治の状況に陥っても、患者も家族も最後まで医師に「できるかぎりのことをしてください」と頼むケースのほうが多い。いくら尊厳死が認められているとはいえ、それを選ぶ患者さんはまだ少ない。
私たち人間は必ず死ぬ。そして、死を意識したときから、必ずどう死ぬかで悩む。ところが、多くの場合、その悩みを医師に打ち明ける患者さんは少ない。それでもし、「もういいです。早く死なせてください」と患者さんに訴えられたら、どうするだろうか?
医者だから当然、もう助からないのはわかっている。だから、患者さんの気持ちも痛いほどわかる。しかし、日本の医療倫理では、医師はいくら患者が望んでも、死に至る薬物などの処方はしてはいけないとされるのだ。
合理主義者なら、患者が死を免れないとしたら、できるかぎり安らかにそのときを迎えることは、患者にとっても家族にとっても、そして医者にとっても合理的選択であり、か
つ人間性を尊重したことになると考えるかもしれない。


ベルギーとオランダに見る安楽死の現実-2


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ベルギーとオランダに見る安楽死の現実-2

そうして、1993年に遺体処理法、2002年に、いわゆる安楽死法(正式名称は
「要請による生命の終結及び自死の援助審査法」)が成立し、施行されている。つまり、現実
のほうが先に進み、そのたびに国民的な議論が繰り返されてきたのだ。
オランダの安楽死法が認めているのは、次の4項目である。

(1)患者からの任意かつ熟慮された要請
(2) 圧倒的に医療的な苦しみがある
(3)他に合理的な解決策がない
(4) 独立した医師によるセカンドオピニオン

これらの要件が満たされれば、医師はクスリの投与、注射により薯を安楽死させることが認められる。
2012年度にオランダで認められた安楽死は4188人で、このうち医師による生命の終結3965件、自死の援助185件となつている。これら安楽死した人々のうちの3251人が、末期ガンなどの重病を抱えていたという。
そこで、この日本で積極的安楽死を認めるとしたら、私は限定条件をつけるべきだと考える。ベルギーのように子供までを認めるのではなく、たとえば、回復の余地のない高齢患者にかぎればいいのではないだろうか。とくに、終末期で延命治療だけで生きている患者さんには、安楽死を認めてもかまわないのではをかろうか。実際、そのように主張している人々もいる。


ベルギーとオランダに見る安楽死の現実-1

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ベルギーとオランダに見る安楽死の現実-1

積極的安楽死、つまり医師の投薬による安楽死を認めている国が世界には何カ国かある。ベルギーもそんな国の一つで、ベルギーでは、2013年には1816人が安楽死を選んでいる。ベルギーの人口は約1120万人。高齢化率も日本よりは低いが20%は超えている。そこで、人口比で考えると日本でもし積極的安楽死が認められれば、毎年約2万人が自殺封助を受けて死ぬことになる。いや、過剰な延命治療が行われている状況を考えると、もっと多くの人が、このような死に方を選ぶかもしれない。
ただし、これは死生観や文化の問題もあるので、一概には言えない。
安楽死先進国ベルギーでは、2014年2月、なんと子供の安楽死まで認める法案が可決された。ベルギーでは、これまで18歳以上の成年に安楽死を認めてきた。しかし、この法案は、安楽死を許可できる最低年齢を定めないとしたのだ。
安楽死といえば、ベルギーよりオランダのほうが進んでいる。オランダでは、親の同意があれば12歳以上の未成年にも安楽死を認めていて、法律が導入された2002年から5人の子供が安楽死を選んだという。ちなみに、世界で安楽死を認めている国は、欧州ではスイス、ルクセンブルクがあり、アメリカでは州によって異なるが、オレゴン州とワシントン州では認められている。
では、なぜこれらの国では安楽死が認められたのだろうか?
オランダを例にとると、オランダでは2002年の法案成立からさかのぼること30年前、1973年に、医師が実の親を安楽死させるという事件が起こり、これをきっかけに国民的な議論が始まった。


安楽死は本当に「自殺封助」なのか?-2

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安楽死は本当に「自殺封助」なのか?-2

末期ガンきで苦しんでいる患者さんを見ると、「どうしても助からないなら楽にさせてあげたい」というのも人情だからだ。ご家族のなかには「死なせてください」と、医者に懇願する方もいると聞く。
しかし、問題は果たして安楽死が医療行為なのかという、大いなる疑問だ。安楽死支持者や団体は、「安楽死は医療」と捉え、患者を肉体的・精神的な苦痛から救うことだと主張しているが、本当にそうと言い切れるだろうか。
もちろん、私自身としては、苦痛を伴う延命治療だけは受けたくはない。もし自分で死期を決めてそれが実行できるなら、そうしたい気持ちはある。
ブリタニーさんの安楽死に関しては、アメリカ国内の世論調査でも、意見は賛成と反対に大きく割れていた。また、全米の67%の医療関係者が、医師による自殺酎助に反対しているという詰も伝えられた。
ただ、これはリアル過ぎて書きづらいが、医師による自殺常助による安楽死が認められると、どうなるだろうか?
おそらく、日本のような高齢化大国では、積極的安楽死はかなり増えるだろう。すると、現在、社会的な大問題となっている医療費の増加は抑えられることになる。そういう意味で、財政逼迫に苦しむ政府は、積極的安楽死を認める可能性がある。


安楽死は本当に「自殺封助」なのか?-1


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安楽死は本当に「自殺封助」なのか?-1

2014年11月、アメリカのオレゴン州で、末期の脳腫瘍で余命半年と宣告されたブリ夕ニー・メイナードさんという女性(29)が、「自死宣言」通りに死亡したため、世界中で安楽死を巡る論争が巻き起こつた。彼女は、自身のフェイスブックで自死を明かしたため、日本でも大きく報道された。
しかし、これほ厳密に言うと尊厳死ではなく、日本で言えば「自殺封助」に当たる。
オレゴン州では、「オレゴン尊厳死法」という法律の下に、医師の手助けによる自殺(pAS‥physiciantassistedsuicide)が認められている。tだから、彼女はカリフォルニア州からオレゴンに転居して、自らの意思で死ぬことを選んだのである。
多くの方が安楽死について誤解しているが、安楽死には二通りある。一つは積極的な安楽死というもので、今回のケースのように医師が患者の意思を尊重して死ぬための薬等を与えるケースだ。もう一つは、患者の意思を尊重するのは同じだが、薬等の死に至る処置はせずに延命治療を止めること、つまり尊厳死である。
前者は、米国では今回のオレゴン州のほか4州が、世界ではオランダ、ベルギー、スイスなどが合法化している。しかし、日本ではこれを認める法律はない。なぜなら、医者が死ぬための薬を与えることは、「自殺を手助けした」とされるからだ。そうなると、現在
の刑法に触れてしまう。
実際、日本の医師の多くが、この積極的安楽死には反対している。それは合法化されていないという以前に、いくら患者さんの意思とはいっても、自らの手で他人の死期を決め、そのための処方をするのは、倫理観が許さないという理由からだ。
「安楽死と言うけれど、それを実行する医者の立場になつたら、とてもできるものではありません。倫理の問題もありますが、本来、医者とは命を救うのが使命で、その道もまた使命というのは矛盾しています」
と、私の知人の医者の多くが言う。そのなかには、こう言う医者もいる。
「生きる権利があるなら死ぬ権利もあると主張する人もいますが、積極的安楽死の合法化は、患者の権利ではなく、医者に死なせる権利を与えることですから、そんなもの欲しくありません」
この辺の問題は非常に難しく、私自身も迷っている。


自分の意思で過剰治療を拒否する「尊厳死」

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自分の意思で過剰治療を拒否する「尊厳死」

現代の終末治療、延命治療には多くの批判がある。それは主に、過剰治療であり、本人も家族もそこまで望んでいないのではないかという批判だ。
いったん病院に入ると、自然死をさせてくれない。前記したように、水分や栄養物が人工的に注入され、そのために体は水ぶくれの状態になり、枯れ木のようになっておだやかに死んでいくことができない。この過剰治療により、本来なら衰えていく体は無理やり生かされ、それは患者にとっては苦痛でもあるというのだ。
もちろん、患者には過剰な延命治療を拒否する権利がある。回復不可能となった場合、患者の意思が明確であれば、医療行為を中止しても、医者は罪を問われない。アメリカでは1977年にカリフォルニア州で「自然死法」が成立して、医者は患者が自然に死んでいくことを尊重することになった。
日本でもこの考え方は広がり、言葉を換えて「尊厳死」と呼ぶようになった。そしていまでは尊厳死が一般化し、尊厳死を選択する人が多くなってきている。
前出の中村医師と同じような立場から、特別養護老人ホーム常勤医の石飛幸三氏は『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社文庫、2013)を出され、終末期の高齢者に過剰な水分や栄養を与えて穏やかな最期を迎えられなくしていると訴えている。また、「平穏死できない現実を知ろう」「救急車を呼ぶ意味を考えよう」と、兵庫・尼崎市で在宅医療を続ける長尾和宏氏.(日本尊厳死協会関西支部長)も、訴えている。長尾氏には、このSB新書に『寝たきぃにならず、自宅で「平穏死」』(SBクリエイティプ、2015)という著書がある。
いずれも、私たちがどうやって死ぬかを考えるときに、欠かせない本である。
医師の立場から言って、私はいまの日本で死に方を選ぶとしたら、大きく2パターンしかないと考えている。一つは、自然に訪れる死をそのまま受け入れること。それがどんなかたちであろうと、自然のなすがままに死ぬことである。そして、もう一つは、いわゆる尊厳死と呼ばれる、自分の意思で自然死を選択することである。
ところが、この尊厳死のうち、日本では積極的な死とされる「安楽死」は許されていない。
日本の場合、尊厳死は、1995年の東海大学事件判決により、「消極的安楽死」と「間接的安楽死」の2パターンしか認められていない。前者は、患者・家族の意思で延命治療を中止すること。後者は、苦痛から解放する治療をして、それが生命の短縮につながったら仕方ないというものだ。
しかし、本当に患者の意思を尊重するなら、安楽死も認めてはいいのではないかという意見もある。
とくに、世界の先進国では安楽死まで認めている例が多い。


食べられなくなって餓死するのが「自然死」-2

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第2章 死ぬとはどういうことなのか?

食べられなくなって餓死するのが「自然死」-2

それでは、「自然死(老衰死)=餓死」とはどのようなことを言うのだろうか?
人間は誰しも死ぬ間際になると物を食べなくなり、水もほとんど飲まなくなる。そして、飲まず食わずの状態になってから1週間から10日で死んでいく。これは飲食しないから死ぬのではなく、死ぬから飲食しなくなるのであり、死ぬ前には腹も減らず、のども渇かないという。こうしてその飲まず食わずになると、人間はそれまで蓄えてきた体のなかの栄養分や水を使い果たし、枯れ木のようになつて死んでいく。だから、自然死は餓死と言うのである。
餓死と言うと、言葉の響きからいって惨めなうえ、飢えと渇きで苦しみながら死んでいくと思いがちだが、実際は安らかな死に方であるという。
その理由は、次の三つだ。
1、飢餓状態になると常にモルヒネのような物質が分泌されて幸せな気分になる。
2、脱水状態になると意識レベルが下がりボンヤリとした状態になる。
3、呼吸が十分にできなくなると体内が酸素不足し、その一方で体内に炭酸ガスが増える。酸栗足は脳内にモルヒネのような物質の分泌を引き起こし、炭酸ガスには麻酔作用がある。
つまり、この三つの作用により、人間ほもうろうとしたまどろみのうちに死んでいく。ガン患者でさえも自然死の場合には痛みを感じず、もうろうとしたなかで死んでいくという。

 


食べられなくなって餓死するのが「自然死」-1

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第2章 死ぬとはどういうことなのか?

食べられなくなって餓死するのが「自然死」-1

死が医者によって判定され、死亡診断書で確定するというのに、前述したように医者は死というものをよく知らない。とくに、老衰のような自然死については知らないと言っていい。疾患を待った患者の死しか目の当たりにしていないから、人は老いれば自然に死んでいくものなのに、病気を治す要領で延命治療を行ってしまう。
口から食べる力がなくなつているにもかかわらず、チューブをつけて栄養剤を投与し、呼吸する力がなくなつているにもかかわらず人工呼吸器で息をさせる。これらはいずれも、自然死に逆らう行為と言っても過言ではない。
「自然死とは、実態は”餓死”なんです。餓死という響きは悲惨に聞こえますが、死に際の餓死は一つも恐ろしくない」と、『大往生したけりや医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者、中村仁一氏は言っている。中村氏は医師としてのキャリアの最後に特別養護老人ホーム常勤医となり、高齢者の死をたくさん看取ってきた体験を元にこの本を書かれているので、人間の自然死への見方は確かである。
中村氏は、「自然死は病気ではありません。過度の延命治療は死に行く人のためにはなりません」と言い、「大往生するためのいちばんいい死に方は自然死です」と、結論している。


あくまで医学的に確定される死に方-2

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第2章 死ぬとはどういうことなのか?

あくまで医学的に確定される死に方-2

診断書のポイントは、「死亡の原因」の記載である。それは、次のように、細かく7つに分かれている。
1、(ア)直接死因と発病(発症)又は受傷から死亡までの期間
2、(イ)(ア)の原因と発病(発症)又は受傷から死亡までの期間
3、(ウ)(イ)の原因と発病(発症〉又は受傷から死亡までの期間
4、(エ)(ウ)の原因と発病(発症)又は重傷から死亡までの期間
5、直接死因には関係しないが上記の疾病経過に影響を及ぼした傷病名等
6、手術の有無と手術年月日
7、解剖の有無とその主要所見

なぜこのように細かいかと言うと、厚労省の死因統計に用いられるのが、「原死因」だからである。「直接死因」だけだと、本当の死因はわからない。直接死因というのは、死に至った直接の疾患名で、たとえば、「肺炎」だけの記述だ.と、これは「それまで元気だった人が肺炎を起こして死亡した」ということになってしまう。  」タ
実際は、脳梗塞を5年前に起こし、その後、寝たきりで嚥下障害をたびたび起こしていた。そのため、肺炎を併発して死亡した場合、肺炎だけでは困るというこ七である。
そこで、「脳梗塞後遺症が根本の死因(原死因) である」ということを明確にするため、1の(ア)に直接死因の「嚥下肺炎」と書き、(イ)欄以下に、(ア)の原因として「脳梗塞後遺症」と記述することになる。
こうした書かれた診断書によって、遺族は7日以内に役所に死亡届を提出し、同時に火葬許可申請を行うことになる。こうして、遺体は茶毘に付され、火葬場で火葬許可証に火葬をした旨の印を押印してもらい、それをもって埋葬許可証となり、火葬場で埋葬される。
このようにして私たちの死は、社会的に「確定」されるわけである。