八、新選組、白河ロヘ出陣

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-6
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

八、新選組、白河ロヘ出陣

閏四月五日(現在でいえば五月下旬)、新選組は白河ロへの出陣が命じられ、土方歳三と共に城に上がり、松平容保に拝謁し、金子を受領
する。
○新選組隊長役山口次郎被命、当隊百三十余人を率て白河方面へ出張の命下る。当隊会公に謁す。公賜に金若干を以す。
(『中島登覚書』より)
土方は新選組の指揮を斎藤一(この時は山口次郎を名乗っている)に命じている。
閏四月六日、新選組、城下を出陣して赤津に宿陣、翌七日、三代に至り滞降する。十四日間の滞陣となる。奥羽二十四藩の列藩同盟の和平
接渉の返答待ちにあったためであると思われる。
『戊辰戟争 会津東辺史料』に、内藤隼人(土方歳三)が郡山西部地方の八幡村へ閏四月十四日夕より同二十四日朝迄上下七人、五人(断続)、御馬壱疋。大槻村に閏四月二十四日昼より十人。只野村へ閏四月二十四日昼より翌二十五日昼迄、上下四人-とあるが、土方はこの時はまだ城下清水屋・東山温泉などで治療中、恐らく山口次郎らの幹部が内藤隼人預り(家来)と云っていたのではないかと思われる。
新選組は三代に滞陣中、隊士の名簿を残している。湖南町・石井郁家文書にある。月日は記されていないが、閏四月から五月頃といわれて
いる。

隊長役    山口 次郎
副長役    安富 才輔
軍 目    島田  魁
同     久米部 正親
歩兵差図役
(頭取改役兼務)近藤 隼雄
歩兵差図役  尾閑 雅次郎
同     田村 一郎
同什長    木下 厳
同 断    近藤 芳助
同 断    横倉甚五郎
大砲差図役  吉村芳太郎
歩兵差図役下役 大橋半三郎
同     千田 兵衛
同     阿部 隼太
同     鈴木連三郎
同     三品 二郎
大砲警備隊下役 白戸 友衝
同     天海勝之助
同     田中 律造
寵 役    梅戸勝之進
同     漢 一郎
隊長附    中島  登
同     小堀誠一郎
同     和高虎之助
同     吉田俊太郎
同     池田七三郎
同     円尾桂次郎
同     新井破摩男
同     田村六五郎
同     清水 卯青
同     松本 葉輔
器械方頭取  斎藤 秀全
〃 下役  立川 主税
〃 下役  高田文二郎
医 者    大官 友賢
歩兵小頭取締役 河合弥三郎
歩兵小頭役  加藤 定吉
同     鈴木 乙治
同     中村 清七
同     西沢 義吉
同       同     藤本吉之助
同     永田鎌三郎
同     岸田 兼吉
同     林 久吉
同     黒川 佐吉

歩兵五拾人
小者 九人
別当 三人
右の通三代駅に滞陣罷在り候

※湖南町三代の正福寺に新選組隊士松本善次郎の墓がある。「池田屋騒動」に参戟した古参隊士松本善次郎は、甲州鎮撫隊として甲州勝沼の
戦いに敗れ、江戸で近藤勇らと挟を分かち、長倉新八が創設した靖共隊に加盟するが、その後、新選組に復帰し白河の戦いに参戦したようである。しかし、いつの白河戦争で負傷したのか、寺の話では「白河の攻撃」で負傷し、勢至堂から三代に退き、寺の薮に集れていたところを助けだされ、手当てを施すが、その甲斐もなく八月十七日、正福寺で亡くなったという。三代滞陣の新選組名簿にその名がないのは、既に新選組を離脱して臥床にあったからであろうか。