四、会津藩、武備恭順に決し、軍制改革を断行

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-3
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

四、会津藩、武備恭順に決し、軍制改革を断行

西軍は一月半ば頃から仙台・米沢藩に執拗に「会津追討命」を下し、三月十八日、奥羽鎮撫総督府が仙台湾に入港し、仙台・米沢藩に会津
追討を命じている。下参謀の世良修蔵の横柄な態度が反感を買う。しかし、すでに水面下では仙台・米沢藩は「会津救解」に動き出していた。
一方、会津藩は幾度となく「謝罪恭順」の嘆願書を提出していたが、何の返答もなく、遂に会津藩は三月十日に「軍制改革」を断行、「武
備恭順」に決した。改革の柱は①軍制を洋式
に改め、②各隊を班席(身分)・年齢別に編成、③農町兵を募るとし
年齢      士中隊 寄合組 足軽組
白虎隊一六~一七歳  二隊  二隊  二隊
朱雀隊一八~三五歳  四隊  四隊  四隊
青龍隊 三六~四九歳 三隊  二隊  四隊
玄武隊 五〇歳以上  一隊  一隊  一隊
の各隊を定めた。
各隊は中隊頭(隊長)一名、小隊頭二名、教導(一、二名)を置き、隊士は七二名を定員としたが、隊どとに多少の増減ほあった。このほかに、医師、兵糧方、事務員あるいは隊士従者なども加わり、実際は百名以上になっていたが、白虎隊だけはその半数であった。各隊の任務ほ、朱雀隊は第一線に出て戦う実戦部隊、青龍隊は藩境の守備隊、玄武・白虎隊ほ予備隊であった。
これら主力部隊のほかに、砲兵隊、遊撃隊、築城兵などを加え、約三千余名をもって正規軍を組織、募った農町民兵は主として工兵・輪重
兵を養成するためで、二十歳から四十歳までの身体強健な者二千七百名であった。これを四郡各組に分け、組ごとに各村の郷頭、帳書、肝煎
を置いて帯刀を許し、その上に代官、支配役、帳付などを置いて指揮させた。また猟師隊、力士隊、修験隊なども編成し、正規軍と合わせて
七千名を越えた。しかし、砲兵隊には大砲など少ない状態で、小銃で戦っていたという。
武器は二月二日に旧幕府に武器借用の嘆願書を提出し、品川沖台場・箱館台場から大砲を借りたり、また家老梶原平馬、鈴木多門らが、長
岡藩家老・河井継之助の紹介でプロシア商人スネルから小銃・武具などを購入、さらには軍事取詞役兼大砲頭取の山本覚馬が、長崎で鉄砲一
万五千挺のスナイドル銃をドイツ人ルドルフ・レーマンに発注するも、鳥羽伏見の戦いの後に彦根藩に渡ってしまうのである。