三、近藤勇の墓を建立

 

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会津戊辰 白河戦争と新選組-2
(新選組友の会ニュース118号より)

生江昌平

三、近藤勇の墓を建立

日時は定かでないが、土方は若松城(鶴ヶ城)に登城し、宰相松平容保、藩主松平喜徳に拝謁、日新館で負傷者の手当てをする元幕医の松本良順の手当てを勧められ、そこで東山温泉での治療も勧められている。
土方は近藤の墓を建立するのに際し、松平容保を通じ、天寧寺二十九世吟月雲歩和尚から鶴ヶ城小書院で授与された「貫天院殿純忠誠義大居士」の墓を建てた。近藤の首を埋めたとも言われているが、真偽の程は定かではない。
土方歳三は、いつ近藤の死を知ったのであろうか。
この首の墓について、こんな話が伝わっている。昭和十八年(一九四三)六月二十日に発刊されている若松市出身の畑喜代司氏の『維新の
裏を行く』の中に十二頁にわたり「近藤勇の首」と題して詳記されている。畑氏が当時天寧寺の大沢住職から聞いた話として、
○近藤の墓は、明治になり草むらや薮影に没して自然に判らぬままとなっていたが、大正十二年(一九二三)頃より一学徒が天寧寺に来て「この山に近藤勇の墓があるそうですが」 と云った。その時の住職大沢義三が「それは 私にも判りません」と答えたのを、傍らで薪割りをしていた山内兵蔵(七五歳)なる者が聞いて「ああ近藤勇と聞いて私は思い出しました。今あそこに墓があるかどうかほ私は判りませんが、私が十九歳の時、私の親父が人 足を使ってあの山上の西面に埋めたのです」と言いつつ、兵蔵は住職と新潟の学徒を連れて山上へ登って今の墓を薮影から発見して驚 いた。
○この頃、東京でこの珍しい話を聞いた会津藩家老山川大蔵の弟山川健次郎理博(帝大名総長)らが帰郷して、市議・畑喜代造らが案内役になり、この新発見の墓へ参拝し、新聞も大々的にこれを報道した。
○兵蔵老人の父は兵助といい、天寧寺部落の世話役で寺の手伝役をつとめていたが、戊辰籠城の直前頃、兵助は人足を指図して一個の首でも入っていると思われる菰包をここへ埋めていた。息子の兵蔵が「コレ何だべ…」と聞くと、「黙っていろ!近藤勇だゾ」と父は答えた。兵蔵が大沢住職に語ったところによると、その菰包は、丁度首が入っていた位の大きさであった。だから兵蔵は、それは首だと思っていたという。


○筆者は昭和三年(一九二八)より二十年まで在京中、年二度も開催された会津会の席上で、昔の藩の先輩多数に面談して居りますが、近
藤勇の首が来た夜は、藩の有志多数が提灯を幾つも下げて滝沢峠の下まで出迎えたこと等も聞いている。即ちあの墓には近藤の首を埋めたものと聞いている。
これらの資料から、京都三条河原に晒された近藤の首を誰が盗ったのか、会津まで誰がどのようにして運んだのか、等々が謎のままである。京に運んだ時は塩漬けして運ぼれたと伝わるが、京都から会津まではどのようにして、誰が運んだのか、藩の有志が滝沢まで出迎えたというが・・・。
つづく
(上記は、新選組友の会ニュース148に掲載されたものです)
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