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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。
故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-3
伊藤 哲也
藤田五郎の写真
斎藤一こと藤田五郎の写真であるが、西南戦争凱旋時のものが有名だ。反面、晩年における藤田五郎の写真のことを知っている人は、多いとは言えない。藤田家集合写真が実質的に何故、何処で、何のために撮影されたのかと、いろいろ不思議に思われる方々は多いことであろう。そのことも紹介していく。そして、撮影された場所が、現在はどのようになっているかも書き記していくこととする。また、ここで注意書きさせていただく次第。著名な人物、歌手、俳優等と異なり、写真の著作権自体が撮影者の死とともになくなっておりました。写真の複写を譲渡されたことから、私自身には掲載する権限が譲渡されたと同じことなのだともいう。藤田五郎の次男直系から私宛に写真とともに送ってこられた文章を抜粋すると、「藤田剛の結婚式の写真のコピーですが、送付させて下さい。大出様にも同様のもの(以前に赤間先生へと、大出様にお願いしたものです)」という依頼状をいただいている。
藤田五郎こと斎藤一の京都時代、戊辰戦争時代の写真は見つかっていない。箱館戦争終結後であるが、中島登の『戦友絵姿』に山口次郎(斎藤一)が描かれている。その時の常について、装帳家の平野太一氏は「私は、中島登の『戦友絵姿』を見ると、はっきりしないですが、なんだか頭の真ん中に月代があるように見えるので、江戸では「講武所風」などと呼ばれていた、細い髷だったのではないか」と述べられている。
赤間先生が見つけられた西南戟争凱旋時の顔の骨格、体型など皆さん、御存知のとおりである。藤田五郎の写真を発表された時、見つけられた時の赤間先生の喜びは、文字では表現できないほどであった。
藤田一族の写真の説明に入る前に、藤田五郎の壬申戸籍や斗南移住から息子達のことまで少し紹介させていただく。壬申戸籍に藤田五郎は、斗南藩士と記されているが、法的に現物の写しを公開できないのは残念である限り。藤田五郎の長男直系子孫の代理で、私が閲覧してきて撮影した戸籍は依頼者に渡して、ネガは壬申戸籍を管理しているところへ返却した。この時は、個人情報保護法が施行される前である。藤田五郎は会津藩士ではないが、新選組解体後は会津藩朱雀隊に加わり、転戦し、高田で謹慎後は斗南の五戸に移住して、斗南藩士となり、松平容保の実子・容大に仕えて、後には会津会に入り、いろいろと旧藩や戦士者たちへ助力をしていることから、会津人と表現しても良いのではなかろうか。