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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。
故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-2
伊藤 哲也
故・赤間先生と斎藤一
赤間先生は、いろいろと執筆をされてきて、著名ではあったが、そのなかでも『斎藤一の謎』は世間一般に広まったと述べても過言ではあるまい。斎藤一こと藤田五郎の写真を見つけられて掲載されたことも人々が惹き付けられた理由の一つではなかろうか。出版により斎藤一こと藤田五郎のことを調べられた最新資料を集めて、今も誰しもが追い抜くことなどはできない貴重な書籍となったのである。だが、研究本となると、誰かが後に、より詳しいことや新たな新史実を述べていく。後半は斗南へ移住した一瀬伝八改め藤田五郎のことが主体であった。実は、赤間先生と私が手紙でいろいろやり取りしたことごとを書き改めておられていたことには、後に読んだときに驚いたのでありますが、それと比較すると、一作目の『新選組副長助勤斎藤一』は小説であり、文章も読みやすい。史実が出てきたとしても、真偽の程は別なのである。両方の書籍は、別の意味合いで貴重なものであろう。赤間先生は、とにかく世に残る貴重な書籍を書き残されたが、他の斎藤一以外の単行本も読み応えはある。皆様も本棚から取り出して、改めてお読みになられるとよいものではなかろうか。
私が初めて、赤間先生が入院されたということを聞かされた時は、驚きました。急ぎ東京都日野市の病院へお見舞いに上がったのですが、土方歳三資料館の土方様がいろいろと赤間先生の面倒をみておられた他、伊東成郎氏が『土方歳三の日記』を持ってお見舞いに上がられたことも伺いました。
清水りえ氏も何度もお見舞いにあがられておられている。その後、第三者より、「女性の場合、長期入院生活しているところを男性に見られるのは恥を噸すようなものだから」と言われて、少し納得し、お見舞いも控えめにしたこともありました。そのうちに、赤間先生は、東京都日野市の病院から他市の病院へ転院される。お見舞いに行く度に部屋が移られていく。そして、赤間倭子先生の旦那様は、というと、藤田家からいただいた藤田五郎の羽織を召しになったことも本に書かれており、皆様も御存知のことであろうが、旦那様が他界されて、その病室へ移られてきたこともあった。私と赤間先生の最後の面会となる病室が相部屋に代わられており、重くて単行本でも持てないというので、寄贈本とは別に書籍のコピーをお渡しした。だが、眼鏡が近くになく、視力の問題で読めない。私が涙声で低音ながら読んで聞いていただくことになるのだが。そして、私が後に述べる藤田五郎のもう一枚の写真も見ていただくが、ボヤケテシマッテ見えなかったのだろう。赤間先生の涙が止まらなかった。そのようにして、藤田家の藤田夏子氏に藤田五郎の壬申戸籍を渡す前にも見ていただいている。壬申戸籍の写真は、子孫に渡して、ネガは法務局に返すことにっており、急いで見ていただいたのだ。赤間先生が元気で、入院される前に、旧斗南藩領の青森県に行きたい旨を手紙にて何度も受け取っているし、行きたいとも言われた。元気な頃は、演劇鑑賞にも誘われて御一緒したものである。
時は流れて、長屋芳恵氏の知り合いが赤間先生との面会を病院側から拒否された旨を教えられた。どうなっているのだろう?と思い、私も面会しようとしたところ、医師自らが出てきて、個人情報保護法のことを強調されて、どこの部屋にも名前はないといわれる。前からお会いしている医師なので、いろいろ話を伺ったが、暖味な口調であった。だが、そのうちに出た結論は、親戚以外の見舞いは禁ずるということである。少し落ちついてから再び見舞いに訪れようとしていたところ、月日は流れて、赤間先生は永遠の旅立ちに赴かれたのである。