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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
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新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。
未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い
永吉治美
二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-3
慶喜一行は小舟で海上に出て、開隊丸を探すも見つけ出せず、その夜はアメリカの砲艦に乗船させて貰って一夜を明かし、翌
七日、開陽丸に乗船を果たしている。
『復古外記』所収、一月七日付の中村武雄手記に、「(前略)麦に榎本和泉守は初め播州海に於て薩船を打破り、速に上陸して大
坂城に入り大計を論ぜんとせしに、前将軍己に江戸へ走り玉い、(中略)泉州天を仰いで嘆息し……」とあり、榎本が城に入っ
たのは一月七日だったとある。よって榎本が開陽丸から下船したのは六日の早くとも夕方で、恐らく夜にかけてであったと思われる。なぜなら、六日の午前であったり、午後の早い時間であったならば、そのまま登城し慶喜に面会を求めたはずだからであ
る。そうしなかったのは、もう夜になっていて、とても慶喜に面会を求められる時間ではなかったからだろう。
ここでようやく、淀川で土方歳三と榎本武揚が出会う舞台が整った。
一月六日の夕方、橋本から淀川を船で下って八軒家まで退いてきた土方(『島田魁日記』)。かたや、天保山沖に到着した開陽
丸から小舟に乗り換え、八軒家へ落ち着いた榎本。榎本が八軒家へ落ち着いたと考えた根拠は、前述の 『会津戊辰戦史』に、大
坂城から引き上げる際、物資などを八軒家へ運んだとあるからである。
「土方卜淀川ヲ舟ニテ下ル時ニ コン意トナレリ」
二人は淀川の舟中で、榎本が後年語ったように、「懇意な仲」になつたのである。
平忠次郎が訪ねた人々は皆、忠次郎に温かい態度で接してくれたという。榎本始め、大鳥が十本ほど、勝が三本ほど、山岡鉄舟
が三~四本ほど、後藤象二郎、松本良順ともに数本の染筆を忠次郎に与えている。高幡不動に寄贈された数がこれより少ないの
は、形見分けなどで多少数が減ったからだそうである。
しかし忠次郎はこのことを誰にも語っていなかった。そのため、子や孫から「なぜ、このように立派な人々の掛け軸や善が我が
家にあるのか?一体本物なのか?」といつた疑問を投げかけられたのだという。そこで忠次郎は死ぬ前に、その経緯を子孫に
語り残したのである。