一、平家と土方歳三-5

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

一、平家と土方歳三-5

『島田魁日記』に拠ると、新選組はその前日に負傷者を船で大坂へ後送している。橋本口には、〝渡し″があり船便がある。また、橋本から大坂までおよそ、三十キロあり、歩いて引き上げたのでは、時速五キロ(結構急ぎ足)としても六時聞かかる計算となり、暗くなるまで八軒家(淀川河口、天満橋付近)に着くのは難しい。また、朝早くから夕刻遅くまで戦い続けたうえに、六時間余り歩き通した後で、島田達に兵椴焚き出しの手配をする気力が残っていただろうか? 以上のことから、生き残りの新選組は、六日夕方、橋本から大坂へ淀川を船で下って引き上げたと考えてよいだろう。ここで土方が、一月六日の夕方から夜にかけて、淀川にいたという可能性が高くなつた。
一方の榎本についてはどうだろうか。
前述したように、榎本は慶喜が開陽丸に乗って江戸へ帰った後、大坂城で事後の面倒を見ているが、ではいつ榎本は大坂城に入ったのだろうか? それについて作家、綱渕謙錠氏が著書『航』で、詳しく検証されているので、それを参考に、『復古外記』や『蝦夷之夢』 (「旧幕府」所収)などと合わせて考えてみたい。
『蝦夷之夢』 で、著者、沢太郎左衛門(註・開陽丸の副長)は海軍奉行矢田堀讃岐守と榎本が「一月五日から御用にて大坂に上陸し……」と語っていることから、榎本五日在大坂説が存在する。
だが、一月三日に大坂港を出た開陽丸を始めとする幕府艦隊は、一月四日、阿波沖(現在の徳島県沖)で薩摩藩の春日丸、翔鳳丸の二船におい付き、春日丸と海戦に及んでいる (『薩藩海軍史」)。春日は隙をついて逃走したが、故障を抱えていた翔鳳丸は由岐浦で座礁し、翌五日、自爆自沈した。開陽丸は五日にその翔鳳を検分し、榎本と矢田堀は連名で、松平阿波守宛の公文書を由岐浦の奉行陣屋に提出している。その公文書の日付は一月五日である。大坂港と由岐浦は一三〇キロ余りも離れている。その日の内に大坂港に帰り着くのは難しいのではないだろうか。そこで開陽丸を始めとする幕府艦隊が、大坂港の天保山沖に帰港した
のは翌日の一月六日ではないかと考えられる。
『会津戊辰戦史』でも、「是より先開陽丸艦長榎本武揚和泉守は戦況の可ならざるを見、且海軍の戦略を陸軍総督に告げんとし
て、六日の夜艦員尾形幸次郎、伊藤裁五郎、我が藩士雑賀孫六を従へて大坂に上陸す」
とあり、榎本達が大坂へ上陸したのは六日夜となっている。
複数の証言から、慶喜らが大坂城を抜け出したのは一月六日の夜のことで、『蝦夷之夢』には、六日の夜九時頃と記されている。
(注)写真は徳川慶喜公

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