土方歳三と榎本武揚の出会い-2

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

 未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

 

永吉治美

一、平家と土方歳三-2

鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、新選組も江戸へ引き上げ、近藤や沖田ら傷病人は神田にあった良順の泉橋医学所で世話を受けた。新政府軍が江戸に侵攻すると、良順は弟子を伴い会津に赴き傷病兵の手当にあたった。
宇都宮の戦いで負傷した土方も、会津で良順の治療を受けた。会津の戦況が逼迫し、いよいよ龍城となつたので、藩主松平容保
の勧めもあり、良順、その弟子たちと土方ら二十余名は仙台に向かった。
仙台では、旧幕陸軍の大鳥圭介、旧幕海軍の榎本武揚らと合流した。良順の甥に当たる榎本は、「松本の叔父さん、あなたにも是非北海道へ行って頂きたいですがね。あそこはどうしても我々が平定して徳川残党の地盤を作るべきです」(『蘭時の生涯』)
と、共に蝦夷へ渡るよう要請した。しかし土方は良順に、「あなたは我々と違って平和時代に於いて生きて頂かなくてはならな
い方、事斎生に関する医家ですから早く江戸へ帰って今後の御奮闘をお祈り致します」(『蘭時の生涯j)と、江戸へ帰るよう勧
めた。
のち良順は手記に「歳三は鋭敏、沈勇百事を為す雷の如し、近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり、両子を徒に死亡せしむる
は自ら為すと錐も、その罪蓋し順のりて逃るべからざる所あらんか」(『蘭鋳の生涯』)と記している。
近藤と土方が死んでしまったのは自らが選んだ道を進んでのこと、仕方がないことであるが、とても惜しい。一彼らの死に関し
ては、自分に責任があるのではないだろうか、いやあるだろうと、良順は自分を責めている。それほど、良順、近藤、土方は熱
い絆で結ばれていた盟友であった。
さて、本題に戻ろう。
榎本武揚と新選組との出会いは、従来→鳥羽伏見の戦いのあと、大坂城においてであろうと考えられていた。
慶応四年一月六日、淀藩等の裏切りもあって思わぬ大敗を喫した幕府軍や新選組は、いったん大坂城へ引き上げた。しかし総大将の将軍慶喜が、極秘裏に城を抜け出し、江戸へ帰ってしまったあとの大坂城に、もはや戦いを続けようとする意気込みはなかった。
榎本は城内に放置された書類、什器、刀剣類や、鳥羽伏見の戦いの負傷者を各船に収容し、一月十二日、不二山(=富士山)、
翻龍、翔鶴、順動の四艦で大坂を発ち、十四日、品川へ帰港した。