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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。
ヨダとイサミー幻のツーショット写真-3
伊東成郎
一月十六日以降、依田の日記には存命中の近藤と土方は再び登場してはきません。
近藤は三条河原の梟首、そして土方は人伝に聞くエピソードの中で依田の心を震わせるのみです。
しかし、決して見逃すことのできない記録がありました。
昭和三十三年のことです。昭和女子大学近代文学研究室のチームが、依田学海の遺族を訪問しました。
当時中野区に、依田の長男美狭古(昭和二十三年没)の子息、貞孝氏(大正五年生)が暮らしていました。
依田について綿密な調査を続けるスタッフは、孫に当たる依田貞孝氏から、貴重な証言を得ていました。
…(貞孝)氏は、祖父学海の没後生まれた由で、父の美狭古や母喜代などから伝え聞く学海の印象を、「大変気むずかし
い人」と語られた。学海が佐倉藩の留守居役を仰せつかった折に、新撰組の近藤勇と会って二人で撮ったチョンマゲ姿の
珍しい写真も同家に所蔵されているとのことである。
「何でも祖父は六尺豊かな大男であったといいますから、愛用の刀もわれわれが抜くのに骨が祈れるほど長いものです。
この刀で幕末には戦のしんがりをつとめたこともあったそうです」
(「依田学海」「近代文学研究叢書」)
なんと、昭和三十三年の時点で、依田家には依田学海と近藤勇とのツーショット写真が所蔵されていたのだというのです。
現存する二点の近藤の写真は、慶応四年の東帰後に撮影されたということが、現在では一般的な認識となっています。詳細な
日時の特定はできないものの、三月一日の甲州出陣以前であることは間違いありません。
先述の通り、江戸城での対面以降、依田の日記に、生きている近藤の記述はありません。接触を伝える記述もありません。しかし、二月二十日の京都出陣までの一カ月あまりの間に、依田には近藤らと再会する機会はありました。
その雄姿に感激した依田は、今一度、彼らの話を聞く時間を持とうとしたかもしれません。江戸留守居役として、生の京都の
戦況を聞くのも、依田にとっては重大事だったはずです。