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新選組友の会主宰・大出俊幸
会津戊辰 白河戦争と新選組-1
(新選組友の会ニュース118号より)
生江昌平
一、会津藩、白河城・棚倉城の接収を願う
慶応四年(一八六八) 二月二日、会津藩は藩士石沢民衛が旧幕府に白河城・棚倉城の接収を願い出た。しかし、旧幕府からの返答はなかったようである。この頃、旧幕府はいかなる経緯によるのか、棚倉藩主・阿部美作守(正勝=十万石。譜代)を白河再転封の辞令を出した。 だが、大政奉還後の転封は朝廷との摩擦にもなりかねないと結局これも沙汰止みとなり、二本松藩が守備をすることとなった。
二、新選組隊士、会津へ
慶応四年(一八六八)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、新選組は江戸に帰った。二月二十七日、旧幕府より二千三百九十四両、二月二十九日に会津藩より千二百両、三月一日、幕医松本良順から三千両を受領し、三月一日「甲陽鎮撫隊」として甲州を目指すが勝沼で敗れ、再び江戸に集結するが、永倉新八、原田左之助、矢田健之助らは新選組と袂を分かった。近藤勇、土方歳三らは五兵衛新田の金子邸中心に屯集し、隊士を募り、四月一日、流山に二百三十人が移動した。
四月三日、突如、西軍に包囲された。多くの隊士は視察と称して野外演習に出払っていた。近藤勇は投降を決意した。近藤を見送った土方歳三ほ、西軍が牛耳る江戸に潜入し、勝海舟に近藤救護を頼む。残った隊士二百三十人は「会津」を目指すこととなる。途中、脱走する者もあったようであるが、多くは四月六日、銘々船で利根川を下り、銚子から船で磐城・平潟港に上陸、棚倉を経て白河、勢至堂峠を越えて会津へ。また潮来から陸路で水戸街道へ抜け、会津へ入った者もいたようである。その人数は百二十名ぐらいであったようだ。斎藤一が最も早く五、六十名を率い会津入りしたという。
一方、江戸に入った土方歳三は、近藤救護が功を奏さず、そんな中、江戸城明け渡しが決まり、江戸を離れる決意をし、四月十日、島田魁・蟻通勘吾らの側近を従え、今戸から小梅村・霊山寺へ、そこで法恩寺に旧幕諸隊が集結していると聞き、面談し、翌十一日、市川・鴻ノ台に向い、軍議を持った。十二日、旧幕伝習歩兵隊長大鳥圭介が合流し軍議、軍を前軍、中軍、後軍の三軍に分け、土方は前軍総督秋月登之助
(会津藩士・江上太郎) の参謀となり、宇都宮へ向けて進発。
四月二十日、宇都宮城を攻略、二十二日安塚の戦い、翌二十三日宇都宮城を西軍に奪還され、土方は足を負傷(手にも負傷との説もある)、二十四日、今市に後送されていた秋月登之助・土方歳三は護衛十余名と共に会津西街道を会津へ向かった。二十六日、田島陣屋に至り、秋月は残り(父・江上又八は田島代官)、土方は新選組隊士島田魁・漢一郎・中島登・畠山二郎・沢忠助・松沢乙造の六人に護られて会津を目指し、大内宿を経て二十九日、会津城下七日町清水屋に着いた。「土方来る」の報に会津入りしていた隊士らがぞくぞく清水屋に訪れ、再会を果たした。
また土方は清水屋に滞荏中、唐津藩士大野右仲、幕臣望月光蔵らと面談している。このころ(四月から五月にかけて)には元老中・板倉勝
(備中松山藩主)、唐津藩主世主・小笠原長行、幕府典医松本良順、桑名藩主・松平定敬(さだあき)、、長岡藩主父子・牧野忠恭(ただくに)・牧野忠訓(ただくに)らが城下に滞住していた。
(上記は、新選組友の会ニュース148に掲載されたものです)