「新選組を創った男の町」ー3

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今回の掲載は、平成十七年六月発行114号から抜粋しました。

「新選組を創った男の町」ー3
仲井正和
(神奈川県川崎市在住)

五月下旬のある日、今度は顕彰碑と史料館を訪ねるべく再び玉造町へ行くことにした。先日訪れたとき駅に貸自転車があることを確認しており、それで散策したい。
鹿島鉄道のホームで鉾田行を待つ。
先日来った 「新選組号」は側線で待機している。
数人の客を乗せて出発。沿線の水田は田植えが終わり、ディーゼルカーは初夏らしい景色の中を走る。小川高校下を出ると右手に霞ケ浦が見える。きょうは晴れているが、もう少し空気が澄んでいれば筑波山が見えるはずである。霞ケ浦に沈む夕日は絶景であろう。
玉造町に着いたものの、窓口が閉まっており、肝心の貸自転車が事務室の中にある。土・日の窓口業務は休みの旨が書いてあるが、土・日こそ人がやってくるのにどうしたことであろうか。もっとも通勤通学が主体の路線だと考えるとやむを得ない。
駅前にタクシーがとまっていたので、「新選組の史料館へ」と告げる。
芹沢地区にできた「新選親水戸派史料館」である。五分ほどで史料館に着いたが、開館まで時間があるので芹澤家周辺を散策することにする。
近くを流れる梶無川に「手奪橋」が架かっており、河童のモニュメントがある。いわゆる河童伝説であるが、これが芹澤家と関わりがある。
その昔領主がこの橋を馬で渡っているところ、河童が馬の尻尾をつかんでいた。領主はその手を斬った。泳げなくなり、魚をとることもできなくなつて困った河童が領主の屋敷にやってきて、腕を返してほしいと懇願した。河童は持参の妙薬で腕をつなげた。腕を返してくれたお礼に薬の作り方を教えたという。その傷薬は芹澤家に代々伝わって、諸国の大名からの快癒のお礼状が今でも芹澤家に残っているのだという県道から右手に入ると前方に小高い山があり、集落がある。「澤屋商店」があり、観光協会による平間重助の説明板がある。平間重助もこの芹沢出身である。
芹澤氏と平間家の間柄は室町時代までさかのぼる。芹澤氏が相州(茅ヶ崎市)から常陸ヘやってきたときに共に移ってきて、芹澤氏に仕えていた。平
間重助は水戸の千波原で行われた追鳥狩に芹澤鴨の父の一員として参加している。芹澤鴨と共に浪士組に参加したのも、そのような間柄であったからであろう。
芹澤鴨が暗殺されたときは難を逃れて行方不明となつたが、実は故郷芹沢へ戻ってきた。平間は芹澤家に悲報を伝えた。新選組のことよりも自分の使命を果たしたのだった。