新選組外伝 第十二話(最終話)

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第十二話(最終話)
暗夜、板橋刑場で近藤勇の屍(しかばね)を掘る

昨夏、流山市文化会館で新選祖の子孫と語る会が開かれ、御子孫の宮川豊治さんが近藤勇にまつわるお話をされた。
あと柳家での二次会に新選組流山本陣跡にお住まいの秋元浩司さんが、アルバムを持参され、「昭和初年、近藤勇の御子孫とい
う方が訪ねてこられ『勇が大変お世話になりました』と言って記念に一枚の写真をおいて行かれた」と。その写真を見た宮川豊治さんが「この子供は私で、髭のおじいさんは勇五郎さんだ」と思わず叫んだ。
勇の甥・勇五郎(のち勇の一子・タマ子と結婚)は板橋で近藤勇の斬首を見届けた後、上石原の実家に帰ったが、遺体をそのままにしておくわけにはいかない、と伝(つて)を頼って三日後の夜八時頃、Lかばね屍(しいかばね)を掘りに向かった。
広い原っぱの向うに番小屋があり、番人に三円渡して勇を埋めた処に案内してもらつた。首のない胴体が勇であるとの証拠はた
だひとつ。肩に残る鉄砲の傷痕(京都の伏見墨染で伊東甲子太郎の残党に狙撃された傷。松本良順の手術で治ったが親指が入るくらいの痕が残っていた)。
その頃、勇の妻つねと娘のタマ子は中野・成頗寺(じょうがんじ・丸の内線中野坂上から五分)に隠れていた。
勇五郎は板橋の刑場から三鷹の菩提寺龍源寺(りゅうげんじ)に運ぶ途次、成願寺に寄って妻子に永の別れをさせたという。同じ頃、千駄ヶ谷の植木屋平五郎の離れで肺結核を病み療養をしていた沖田総司は四キロ離れている成願寺をしばしば訪ねて、おつね母子と語らつていた。「沖田がやって来て、血を吐きましてね」という、おつねの言葉が宮川家に伝えられている。新選組の仲
間と別れ、池尻橋近くの水車のまわる田舎家(千駄ヶ谷・野口英世記念館あたり)で孤独の淵をさまよっていた沖田は、あの夜、近藤の遺体に会えたのだろうか。勇の斬首から二カ月後、沖田は病死。タマ子は一子久太郎を残して明治十九年二十五歳で逝去。一人残された勇の妻つねは明治二十五年世を去った。享年五十六。

昭和初年近藤勇の子孫が持参した宮川家一族の写真
*「広報ながれやま」平成16年4月1日号~平成17年3月1日号掲載