大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組友の会ニュース発行者・大出俊幸
〒270-0116千葉県流山市中野久木572-44
電話0471-53-3506 友の会入会希望者はお問い合わせください。
新選組と流山
大出 俊幸
(新選組友の会主宰)
新選組外伝 第六話
少年兵・田村銀之助の数奇な運命
先年、流山市文化会館で「ラブ・レター」が上映された折に監督の森崎東さんが撮影にまつわるお話をされた。
森崎さんの兄上・森崎湊(みなと)氏は昭和二十年八月十六日未明、三重の三重海軍航空隊の寮から脱走し、夜明けの浜辺で
割腹自決した。二十一歳だった。
慶応四年の新選組流山駐屯地には十三歳の少年兵・田村銀之助がいた。
大正になって田村銀之助が語ったところによると「流山で降参の際は夜中でしたから、多少の武器は畑へ隠したのですが、鉄砲を持って弾薬を持たぬ人がいたり、弾薬を持って鉄砲のない者がいる始末で、殆ど役に立たなかった」と香川敬三隊の突然の包囲による混乱ぶりを伝えている。
その後、会津に転戦、母成(ぼなり)峠の戦いに敗れ仙台行きの命令が下り、他の少年兵と出発するが、足を痛め脱落。ひとり米沢街道をとぼとぼと仙台をめざす。田村にはあくまで土方歳三について、戦う道しか頭になかった。
箱館戦争では幹部伊庭八郎、春日佐衛門のモルヒネ服毒死を傍らでみることになるが、榎本武揚総裁がまだ先の人生があるのだから降伏しろ、というすすめに答えて「十五の年で命が惜しければ、五十でも惜しい。五十で惜しければ七、八十でも惜しいのです。私も武士の家に生まれたものであって、皆さんと一緒にこの城に立て篭った以上は死する覚悟である」と。
森崎湊は最後の武士として自刃し、田村銀之助は大正十三年、六十九歳まで決して平坦ではなかった人生を生ききった。