大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
新選組と流山
大出 俊幸
(新選組友の会主宰)
新選組外伝 第四話
私事にわたるが、私は大学受験で落第し、農業を手伝いながら一年浪人をした。頼りは受験参考書とラジオ講座のみ。なかでも小野圭次郎の「英文解釈」にはお世話になつた。
後年、その小野圭次郎の義父が、新選組の鈴木三樹三郎(兄は新選組の大幹部・伊東甲子太郎)と知って腰を抜かした。
早速、子孫探しに走り、石岡市在の鈴木家を訪ねたのが、昭和四十六年の晩秋だった(御子孫の鈴木康夫氏には流山市長流寺での第一回近藤勇忌に出席いただいた)。
旬日を待たず、鈴木さんの紹介といって釣洋一氏が会牡に訪ねて来た。
聞けば生麦にある日産自動車の臨時工をしながら新選組の研究をしているとのこと。手には新選組の関連写真と三十枚ばかりの原稿。本にすることをすすめると、京都のパチンコ屋に職を求め、休み時間はすべて取材に専念すること三年。
最後の二カ月は鈴木三樹三郎らの宿舎・月其院に泊り込んで『新選組再掘記』を書き上げた。本の上梓後、釣さんから新選組・島田魁の子孫が見つかったから一緒に敦賀に行って欲しいと言われ、雪の中、塩津敦子さん宅を訪ねた。遺品のなかに島田魁の日記があった。
その一節「近藤某と附き添い野村利三郎、村上
三郎、右有馬(藤太)と同道にて板橋本営に至る。村上三郎、途中より流山に帰る」とある。
近藤勇について行った野村利三郎は板橋で捕縛され、近藤が斬首されてやっと釈放された。のち春日左衛門の陸軍隊に入り東北戦線を戦い石巻で榎本武揚艦隊にいた土方歳三と合流。宮古湾海戦では、三メートル宙を飛び敵艦に乗り移って激闘の未、海中に没したという。
今も宮古市の海岸通りに面して「幕軍勇士の墓」と刻まれた小さな墓碑がひつそりとたたずんでいる。 (文/大出俊幸)