有馬藤太
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新選組と流山
大出 俊幸
(新選組友の会主宰)
新選組外伝 第三話
つか
近藤勇を捕まえに来た男
新選組が五兵衛新田(綾瀬)から流山に転進した慶応四年四月一日、同じ日、板橋の西軍総督府は香川敬三(水戸の人)に宇都宮行を命じた。香川隊はその日千住に泊り、翌二日、日光街道を北上して杉戸から粕壁(かすかべ=春日部)にかけて宿営した。そこへ流山の田中藩陣屋から「武装集団が流山から来た」との情報が届く。関宿の向いにある境町の小松原家に残された文書に「亀吉億茂助口上書」があり、流山の加村というところの陣屋より杉戸の新政府軍へ第一報がもたらされた、とある。
斥候(せっこう)を務めた薩摩藩の有馬藤太が後年語っているところによると、翌三日、午前四時に部隊が粕壁を出立すると同時に隊を二分し、一隊は反転。斥候の有馬藤太は馬を走らせ羽口(はぐち、ばくち、とも言う)の渡しを渡って流山に向かう。五人の兵と足軽の坂本を連れて本営を訪れ「大久保さんに会いに来た」と申し入れる。
「いま仕度中ですからしばらくお待ちください。草鞋(わらじ)ばきのままで結構ですからどうぞお上がり下さい」といってお茶が出される。幕府の奴らはお茶に毒を入れて殺すと聞いたから「昨夜、酒をのみすぎたので水を一杯いただきたい」といって、照れ隠しに水をのむ。
しばらくして大久保が立派な紋付袴で出て来て、二人の小姓を呼び寄せ、一人には書籍と小刀、他の一人には書籍とピストルを与えた。主従の別れとはいえ同情のあまり涙が流れる。
有馬藤太はのち、宇都宮攻略戦に向かったが傷を負い戟線離脱、戊辰役後、官吏となったが、西南戟争に呼応して起ち投獄され、恵まれぬ後半生を送った。香川敬三は首脳陣にとり入り戊辰役論功行賞の副委員長など努め宮内庁に入る。青山墓地の中でも広い香川の墓所には大きな鳥居があり、女官一同と刻まれている。