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新選組と流山
大出 俊幸
(新選組友の会主宰)
新選組外伝 第二話
流山駐屯で近藤と土方は何を語り合ったか?
JR京都駅の近くで小さな印刷所を営んでいる石田孝喜さんは、家業の間をぬって古書店や古文書を探したり、墓や碑の調査などされている。卒業した早稲田実業の先輩に、東京は調布深大寺にお住まいの浅田平八氏がいた。朝田氏は調布生まれで、「近藤勇の会」を主宰。その浅田先輩から「せっかく京都に住んでいるのだから、近藤勇のことを何でもいいから調べてみてくれないか」と命言された。
昭和四十六年夏二見都府立総合資料館で仕事の合間をぬって史料探しをしている時に「新撰組往事実戦薄暮」という題目が目にとび込んで来た。
早速、全文の複写願を出し複写を入手した。その中の流山の一節。
新選組が本陣を敷いたといわれている「長岡崖」の階段(流山市立博物館で展示中)板橋総督府からの兵に十重二十重に囲まれた近藤勇は捕吏(薩摩藩有馬藤太)に割腹の決心をして、身支度をするからとしばらくの猶予を乞い、三、四名と二階に昇った。
その時土方日く「ここで腹を切るのは犬死だ。運を天にまかせ、板橋総督へ出頭し、あくまで下総の治安を守るために流山に屯営しているのだと主張するのが得策である」と説得。近藤もやっと領いて板橋に出頭することに同意した。新選組の局長、副長としてともに戦乱を潜りぬけて来た男の別れに当って、どこまでも生き抜いて欲しいと思うのが心情であろう。
その足で土方は、江戸の勝海舟のもとに走り、近藤の助命を嘆願する。
海舟の日記には、一行「四日 土方歳三来る。流山転末を云」とあるだけ。この文書を書いた近藤芳助(のち川村三郎)は会津母成時の激戟に参加。のち仙ムロで捕らえられた。戦後、横浜に移住し代言人(弁護士)となり県会議員も務めた。発見された文書は京都の市会議員高橋正意氏の求めに応じて書いた手紙で約七メートルの差紙に記された長文である。