新選組と流山
大出 俊幸
(新選組友の会主宰)
新選組外伝
近藤勇がやって来た
本所にお住いの吉野宏さん一家は昭和二十年三月十日未明の大空襲で焼け出され、その夜から足立・綾瀬の母の実家・金子家に厄介になった。
「今度は本所の新選組の御入来かい」
「焼け出されの新選組ですが、近藤勇ご同様よろしく」といつた叔母と父との会話をなぜか憶えていた。
後年、古文書を読む会に入って勉強をつづけていた吉野さんは、少年の時に聞いた金子家での会話を思い出して、何かないかと倉を調べさせてもらった。一包の文膚が見つかったのが昭和五十年一月のこと。
時は慶応四年三月十四日の夕方、金子家の親戚の泉谷次郎左衛門から使いが来て「知り合いの御屋敷の者が国元へ帰りたいが、道中が混雑しているから、ひとまず一両日滞在したいので十五人程の宿を頼む」といってきたので承知した。
その夜十一時ごろ四十八人が到着。当主の健十郎は案内人に対して「話が違う』と談判したが説諭され仕方なく応接。
翌十四日、大久保大和(実は近藤勇)が十人とともに来着。十五日、内藤隼人こと土方歳三が四人とともに来る。三月二
十日には総計石二十九人にふくれ上がり、百四十坪の母屋に入り切らず、近くの観音寺と滝二郎宅に分宿する始末。甲州勝沼で板垣退助を長とする西軍に敗走して江戸に向い、三月十二日に負傷兵を会津に向けて先発させ、永倉新八らと狭を分つて五兵衛新田(綾瀬)の金子宅に身を寄せるというあわただしい日程。
四月一日の夕食どき「板橋の東山道軍が千住宿をめざして進行中」との密偵からの報告が近藤のもとにもたらされ、夜半、転陣を決意。お礼に金二千疋(五両)と近藤の写真をおいて出発した。金子家の出費はは三百四十二両であった。