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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-4

第三回 東軍慰霊祭
平成6年10月8日(土)
小千谷・慈眼寺
祭主‥小島慶三 実行委員長‥船岡芳秀
講演‥石原和昌 事務局‥大出俊幸

正午、慈眼寺着。門前で榎本揚武ご夫妻と「新選組友の会」の元気印、岡田祐子とバッタリ(彼女の実家はこの近くだという)。誰も来ぬうちに、本堂右手奥12畳半の河井継之助-岩村精一郎、会談の間に入り、河井の場所に座って見る。
河井は長岡藩(7万4000石)が武装中立を維持しっつ、本気で東西両軍の仲介ができると考えていたかは、大いに疑問がある。生意気な岩村の若僧も、横暴で仙台藩士に斬られた、世良修蔵の次に評判が悪い。
が、一つ弁護すれば、慶応3年12月7日の京都天満屋事件。紀州藩三浦休太郎を護衛する新選組に、殴りこみをかけた、土佐藩士10数名の中に岩村もいた。オツムの方はともかく、度胸だけはあったのではないか。
釣洋一、吉地厚生、石原和昌氏等次々と到着。
各地からの参加者60数名、たちまち本堂が一杯になる。(心配した床は抜けなかったが、先の中越地震で倒壊し、再建されたことは記憶に新
しい)
午後1時、慰霊祭開始。船岡芳秀住職の読経、小島慶三氏の祭文奉読、参会者の焼香と続く。
休憩後、石原和昌氏講演「良知の人・河井継之助」に入り、山田方谷と朱子学を中心に一時間はど話される。
続いて来賓挨拶、子孫紹介。主な方々は次の通り
小嶋慶三(永井隻
午後1時、慰霊祭開始。船岡芳秀住職の読経、
小島慶三氏の祭文奉読、参会者の焼香と続く。
休憩後、石原和昌氏講演「良知の人・河井継之
助」に入り、山田方谷と朱子学を中心に一時間
はど話される々

続いて来賓挨拶、子孫紹介。主な方々は次の通り
小嶋慶三(永井?伸齊子孫)
根岸満(河井継之助子孫)
榎本揚武(榎本武揚子孫)
古山練次郎(新潟戊辰の会会長)
丸山定太郎(小千谷商工会議所副会頭)
松山賢二(継之助を偲ぶ会代表)
星亮一(作家、郡山在住)
稲川明雄(長岡市史編纂室)
兵頭武郎(日本文芸社社長)
古屋寛(古屋佐久左衛門子孫)
西ノ人傑一(小千谷収入役)
太田修(長岡市会議員、継之助を偲ぶ会)

さらに釣洋一、小石房子(作家)、島津隆子、桐野作人、私などが続く。
司会の大出氏は私のことを、新選組・関川代次郎子孫と紹介されたが、実は、今回は雷神隊のつもりである。
「郡藤蔵は天保十年生、在府御徒役10石2人扶持。江戸より藩主と海路新潟へ。雷神隊に入り、北越戦争に参加。維新後は岸栄塾にて算術を修
め、三重度会県会計課に出仕。藤蔵は反骨精神の固まりで、時の県令山崎直胤(土佐)に容れられず、恩給年限にあと一ケ月で退職した。(石井勇次郎も、同じく第2課に出仕、やはり、まもなく故郷柏崎に帰った)
このように、郡家には脈々と反骨の血が流れており、勿論、この私にも流れている」(あちこちから失笑あり)