第三回 東軍慰霊祭ー3

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それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-3

頂上南側にほ桑名雷神隊などが築いた、仏式塹壕が40~50メートルぐるりと連なっている。
深いところは1メートル以上あり、二股台場山より深い。また、付近には東軍兵士の墓が点在し、七基が数えられた。
慶応四年(1868)五月十三日、この山を巡り激戦が展開された。長州奇兵隊、薩摩隊などが、濃霧のなかを頂上めざし駆上った。前哨の会津鎮将隊ほ打ち破られたが、頂上を守る立見鑑三郎(後、陸軍大将)率いる桑名雷神隊、長岡安田多膳の槍隊らは頂上を死守。
立見の奇策もあり、この戦いで、奇兵隊仮参謀・時山直八(30歳)が戦死、西軍は大敗して下山した。時山を狙撃したのは、桑名の三木重
左衛門。三木は代々、火術師範の家柄で自身も名手だった。       、
時山は松下村塾出身の、火の玉の如く闘志にあふれた男である。彼も長州より遥々越後まで来て、無念の死を遂げたのは気の毒だが、実は、京都でも二度、新選組の追求を逃れている。
先ずは、文久三年(1863)八月、豊後屋で土方歳三率いる新選組の御用改めを受け、「長州藩、萩野鹿介でどざる」と、ふざけた偽名で逃れ、翌年六月、池田屋でも時間に遅れて斬られずにすんだ。
莫逆の盟友、時山を失った奇兵隊参謀・山県狂介(有朋)は、時山の首ナシ遺骸に取りすがり、〝鳴呼直八、死して、死せず″と号泣した。
さらに、ここで苦吟した有名な一首がある。

あだ(賊)守る砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

名残はつきぬが時間が無い。車にもどり、四合目まで下った所に分譲地の看板あり。値段を聞けぼ、坪八千円。安いので百坪ほど買って、
ここに別荘と墓を建てようかと、マジに考える。
(去年の函館碧血碑とここ朝日山の二カ所に分骨する必要がある)
小千谷に戻り、船岡公園でタクシーを下りる。
ここには立派な百九十八体の西軍墓地がある。
薩長仲良く並んでいるが、形が違う。右手にひときわ大きな時山の碑が建っている。西軍なので長居は無用、写真を撮り、すぐ引上げる。
時間は11時半、少し早いが昼食とする。運チャンに聞いた〝へぎ蕎麦〃の老舗「角屋」を探して入る。店内で、聞き慣れた懐かし声がする。
なんと大出氏である。他に常総歴研代表の八巻実、渡辺鞆哉の両氏、高橋悦子のご一行である。
早速、同席し、奇遇を喜ぶ。