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東軍慰霊祭の想い出
郡 義武
第二回 東軍慰霊祭ー2
第ニ日 10月16日(土)快晴
釣サンに起こされて7時起床。大出氏はすでに食事中。8時半釣サンと出発。まず駅裏の朝市による。活気があって上野アメ横の雰囲気。
威勢のいい呼声「イイ男にはオマケするよ」といわれて、つい買ってしまう。マルヨ三郎商店。
すぐ、宅急便で自宅へ送る。(私の帰宅より早く届いていた)
タクシーで鶴岡町~栄国橋~啄木の墓を回って立待岬へ出る。ここには早熟の天才歌人、石川啄木の墓があり、歌碑も建っている。
函館の 臥牛の山の半腹の 碑の漢詩(からうた)も 半ば忘れぬ
明治40年(1907)5月、21歳の啄木は故郷岩手渋民村を石もて追われる如く、函館へ渡った。青柳町の借家に身を寄せ、弥生小学校の代用教員となった。月給は12円。(現在の価格では12万円位か)7月、妻子を呼び寄せ「函館日々新聞」の記者も兼務。ようやく、生活も安定したが、その直後、函館の大火ですべては灰燼に帰した。その後は、単身、札幌から小樽へ、さらに釧路へと多感、苦難の旅は続く。
津軽海峡もベタ凪で、下北半島も指呼の間。
「津軽海峡冬景色」を歌ってみるが、どうもしっくりこない。山道を歩いて「碧血碑」へ着く。
木立に囲まれ静寂が支配し、立待岬の喧噪がウソのよう。
碧血とは、皆様ど存知の通り「義に殉じたる武人の血は、3年経つと碧に変わる」との中国の故事によるもの。ここには、明治4年、旧幕
府軍の戦死者、796体を合葬、さらに明治8年、大鳥圭介がオベリスク型の巨大な碑を建立したものである。そういえぼ、『歳三を歩く』
を書いた野田(現・山脇)雅子は「歳三を歩く旅の終点は、碧血碑だ」と結んだ。
少し下がると、柳川熊吉の小さな自然石の碑がある。熊吉は江戸浅草の火消し、新門辰五郎の子分だったが、安政の大地震後、何故か、箱
舘に住み着いた。彼は義侠心に富む男で、箱館戦争後、あちこちに棄てられていた旧幕兵の遺体を収容埋葬した。その罪で新政府軍に逮捕さ
れ、処刑寸前に、軍監田島圭蔵に助命された。