東軍慰霊祭の想い出
郡 義武
第二回 東軍慰霊祭ー1
平成5年10月16日(土)
函館・称名寺
祭主‥小島慶三 実行委貞長‥須藤隆仙
講演‥長谷川つとむ 事務局‥大出俊幸
第一日 10月15日(金)晴
好天の羽田を定刻に飛び立ったANAジャンボ機557便は、快適なフライト1時間でで予定通り、12時15分函館空港へ到着。
紺青色の海、間近に見える函館山、潮の香と共に旨そうなイカ焼きの臭いが漂う。風ほ冷たいが爽快な気分。
~はるばる来たぜ ハコダテヘ~と、思わずサブチャンの「函館の女」のメロディを口ずさんでしまう。
タクシーで五稜郭へ向う。運チャンに函館名物を尋ねると、何を勘違いしたのか、
「人間、ダマす方とダマされる方と二つに分けると、この土地の人ほ皆、ダマされる方じゃないカイ」? これには、相づちの打ちようもナ
イ。
五稜郭タワー前で先着の釣洋一先生に会う。
土方歳三初め、我家の先祖の関川代次郎も、足跡を印したか思うと何故かハイテンションとなる。タワー専務で垢抜けた紳士の中野豊氏の招
待で「稜雲亭」で昼食、早速、ビールで乾杯し歓談する。
ほろ酔い気分で五稜郭を見学し、資料館を覗く。適当に入替えるとのことだが、歳三の写真パネル、新選組袖章などは目を引く。伊庭八郎
の迷子札には「ホンマカイナ」と笑ってしまう。函館市教育委員会が発掘中とかで、盃、茶碗、ギヤマンのコップ、ビンなどが出たとのこと。(歳三もこれでワインを呑んだかも…・‥)
場内を一周し、タワー土産店で「歳三まんじゆう」、「五稜郭最中」、新選組グッズ(土方歳三の大型将棋駒)、その他2、3の書籍を購入。
タクシーで今日の宿「ザ・ひじかた」へ向う。
途中、中島町の中島三郎助親子最後の地に寄り、昭和49年建立の中島親子碑に合掌する。ここには、千代ケ岱陣屋があった。明治2年5月16日、新政府軍の猛攻に、陣屋を死守して中島三郎助、長男恒太郎(23歳)、次男英次郎(19歳)、ともども奮戦、降伏勧告を拒絶し、遂に戦した場所である。千代ケ岱と呼ぼれていたが、昭和6年、中島町と改めた。
三郎助は元浦賀与力で、ペリー艦隊が来航したとき、最初に黒船に乗り込み、ペリーと談判した硬骨漢。安政2年(1855)、長崎海軍伝習所の第l期生として、伝習を受けた。同期に勝海舟がおり、榎本武揚の1年先輩ということになる。特に砲術に関しては、第一人者であった。三郎助の辞世が伝わっている。
ほととぎす われも血を吐く 思いかな
続いて、若松町一本木の「土方歳三戦死の碑」へ表敬訪問。ここはほ昨年グリーンベルトから引越し、一本木関門を新設した小公園となっ
おり、大いに満足。持参の線香を手向け写真をとり、歩いて数分の民宿「ひじかた」で旅装をとき、しばし休憩。応接間にズラリと、新人物
往来社の幕末本が並んでいるのはお見事。(これは、フアンが持ち寄ったのもあるが、殆どほ大出氏が寄付したもの)も早速、親切なオーナーの三上さんに、荒法師三上超順との関係?を聞く。超順は松前法華寺の僧ながら、武術もたしなみ、松前軍参謀として参戦。明治元年12月28日、榎本脱走軍との館城攻防戦で右手に大刀、左手に鍋蓋を持って奮戦、散々脱走軍を悩ましたが、遂に戦死した。
「ウチの先祖は維新後、津軽から海を渡ってきたが、あちらも函館も三上はワリと多いです」
との返事。
日没となり、タクシーで函館山へいき、〝百万ドル″の夜景を楽しむ。海に峠遠くイカ働舟の漁火が連なり、旅情を誘う。思わずここでも
裕チャンの「黒い海峡」を歌ってしまう。
「海峡の空を 星がひとつ飛んで 家をでた
あの娘が 遥々越えた…… (皆様、ど存知か)
しかし、山頂は海からの強い風が冷たく、涙目になり鼻水が出る。まして、釣先生とのデートでは、あまりロマンチックでもない。
早々とロープウエイで山を下り、駅裏の郷土料理店へ入り、釣氏と一杯やりながら暖まる。
シーフードがボリュームたっぷりで美味しい。イカ、エビがたっぷり入った海鮮ラーメンも旨かった。ホロ酔い機嫌で宿へ戻る。
大出氏も外出より戻られ、早速、また乾杯。
釣氏は今、火盗改めの長谷川平蔵に入れ込んでいるという。すかさず、大出氏が、「これからは、鬼の釣平こと、〝鬼釣″と呼ぼう」それはいいと大笑いしたが、釣サンは苦笑い。明日からの慰霊祭とツアーの成功を祝って、12時散会。