福島県白河市の龍興寺で行われた第26回・戊辰役東軍殉難者慰霊祭(主宰・大出俊幸講師)は、10月7日(土)大勢の参集者を得て無事に執り行われました。東北の山寺で季節は秋、気候が心配でしたが当日は穏やかな晴れ日で風もなく、紅葉に包まれての厳粛でよき法要でした。
龍興寺・海野仁兆ご住職の読経と法話の後、ご焼香に続いて勝海舟ご子孫・高山みな子氏の挨拶、各ご子孫紹介などもありました。
暫しの休憩を挟んで、白河藩最後の藩主・阿部正外(まさとお)と白河にまつわる記念講演がありました。
講師を勤められたのは白河藩、棚倉藩の最後の元藩主のご子孫で阿部家22代当主の阿部正靖氏で、少々早口ではありましたが歯切れのよい聞きやすい語り口で、徳川家康公以来の幕府における阿部家の重要な役割がよく理解できました。
その後の懇親会は、美酒に加えて龍興寺ご住職自らが台所で腕を振るっての料理の数々で味も量も充分に堪能しました。
私(花見)は翌日に所用がありますので日帰り帰還でしたが、翌日の史蹟巡りバスツアーも盛大だったそうで何よりです。(村長)
郡 義武(こおり・よしたけ)
昭和十五年(一九四〇)三重県桑名市生まれ。
平成十二年大日精化工業(株)を定年退職。
現在上尾市生涯学習指導員、歴史作家。
主要著書に「桑名藩戊辰戦記」「秋田・庄内戊辰戦争」「坂井三郎{大空のサムライ}研究読本」「シリーズ藩物語・桑名藩」。
共著に「松平定敬のすべて」「戊辰戦争全史」「三百藩戊辰戦争事典」「江戸東京史跡事典」「新選組資料集」他多数あり。
東軍慰霊祭の想い出(1)-5
郡 義武
小嶋慶三氏は長身スマートかつ物腰も上品な好紳士。本日の慰霊祭の実行委員長である。武州忍藩から幕臣に養子入りし、衝鋒隊副隊長と
なり、同じく、副隊長で生き残った今井信郎よりも活躍した快男児・永井壊伸葬(別名、鈴木蜂之進、蝦夷矢不来で戦死、享年30歳)の子孫である。初対面ながら、いろいろな話をしたが、その要旨は、次のようだった。
「忍藩松平家(奥平)は文政6年(1823)、有名な一二万お国替えで桑名から忍(現・埼玉県行田市)に転封されたが、桑名時代が一番長く、
召年以上桑名にいたので(正確には113年間)懐かしい感じがする。しかし、桑名時代の記録はあまり残っていない」
私が「桑名薄からは、恭順派家老・吉村権左衛門を上意討ちした、山脇隼太郎、高木貞作(後、箱館新選組入隊) の両名が衝鋒隊に入っ
ている。
我家の分家からは、郡藤蔵が雷神隊に入っていた」というと、小嶋氏、大いに喜んで、「”1に衝鋒、2に桑名雷神、3に佐川の朱雀隊″、あの雷神隊ですか。(但し、この順位は桑名では逆になる)、衝鋒隊は負けると判っている戦いに、武士の義を通すために戦ったのです。
自費出版の『永井護伸斎博』は若干在庫があるので、後日、寄贈したい」(残念ながら、この約束を果たす前に、逝去された)
次にお会いした榎本隆充氏(榎本光学研究所所長)は、落ち着いた物腰で、人当たりも柔らかく、酒は強く、顔にも全然出ない。この時は、まだ鼻下の美髭? も生やしていなかった。
子爵榎本武揚の長男の子孫だが、「記録、資料は殆ど我家には残ってません。降伏の時に渡した『海律全書』などは、国会図書館にありま
す」(後日、榎本氏よりこれは宮内庁資料室の方です。との訂正があり、実物は傷みが酷いので、公開されてないが、複写版があるとのこと)「武揚は有名なので、映画、TVなどでドラマ化されるときは、必ず、挨拶があり、引っ張り出されたりで、結構忙しいです」とのこと。
「父上は何をなされてましたか」との私の愚問には、「戦前まで、爵位を持ってる人は、皆様償金が貰えました。高等遊民とでもいいますか、名誉職以外、特に何もしないのがイイのです」
とのこと。同氏の温厚な人柄は親しみやすく、その後も長くお付合いをいただくことになった。
続いて会った古屋寛氏(衝鋒隊隊長、古屋佐久左衛門子孫)は、酒をがぶ飲みし、かなり強そうだ。日大長谷川勉教授(つとむ、はペン
ネーム。会津・梶原平馬子孫) の教え子とのこと。ドイツ文学とヨットが趣味とかで、日焼けした、たくましい顔をしている。
が、家には資料は何もなく、佐久左衛門が蘭語で書いたとかの日記も見たことがないという。
時間がなかったので、来年の「歳三忌」で再会を約して別れる。