東軍慰霊祭の想い出(1)-4

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 郡 義武(こおり・よしたけ)
昭和十五年(一九四〇)三重県桑名市生まれ。
平成十二年大日精化工業(株)を定年退職。
現在上尾市生涯学習指導員、歴史作家。
著書に「桑名藩戊辰戦記」「秋田・庄内戊辰戦争」「坂井三郎{大空のサムライ}研究読本」「シリーズ藩物語・桑名藩」「航空映画百年史」「台南空戦闘日誌」。共著に「新選組大人名事典」「松平定敬のすべて」「戊辰戦争全史」「三百藩戊辰戦争事典」「江戸東京史跡事典」「新選組資料集」他多数あり。
東軍慰霊祭の想い出(1)-4

郡義武

桑名の殿様・松平走純(久松)氏には案内状は出したのだが、本日、あらためて挨拶しょうとしたが、殿様一行はすぐに車で別会場へと向われ、残念ながらお目通りはかなわなかった。
初お目見えは6年後、平成10年10月の桑名に於いての慰霊祭まで待つ事になった。チヨット見た感じは、色白で気品があり、幕末の桑名藩主・松平定敬もかくやと思われた。
慰霊祭終了後、ついでなので、寛永寺の徳川第1回東軍慰霊祭・3次会慶喜の謹慎の間などを見学。陣羽織、小机なども当時のまま置いてあったが、陽の当たらない陰気な部屋。ここで二ケ月、慶喜はヒゲも剃らずに、ただひたすら謹慎したと言うが、本当に、一会桑の京都時代のあれこれや、大阪城脱出などを真剣に反省したのだろうか……。
余計なことだが、慶喜の正妻美香子は江戸城に置きっばなしで、謹慎しながらも、慶喜は特にお気に入りの側室、新村信、中村幸の二人を
京都から江戸まで帯同していた。(側室は貴賎交々計10名)さらに、余計なことだが、この二人余程お気に入りだったのか、ナントそれぞれ、12人の子女を生ませ、(但し13人が成人したのみ)二人の側室は、その後、静岡へ行き、慶喜臨終まで付き従っている。
二次会は上野駅東「ニュー上野ホテル」3F会場。約60名参加。改めて小島慶三、宮崎十三八、榎本隆充、古屋寛氏などと名刺交換して歓談。同じ東軍なので、すぐ打ち解けて話は盛り上がったが、特に榎本、古屋氏の豪快な飲みっぷりは、さすが、酒豪の子孫だと納得した。