二十、第七次白河戦争-2

 

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー27

生江昌平

二十、第七次白河戦争-2

但し、月山口より敵討って出るのを拒否するため、真山仲太夫、根来平兵衛、太田某 各一隊宛を引率し、山上に備えるべし。
一、本道白河関門先鋒猪苗代城代田申渡之進五小隊にて、関門に迫り控え、細谷の合図にて、大松沢の関門開くと同時に、入替り襲撃すべし。右応援として赤坂幸太夫の四小隊控え、左右の胸壁には伊達安芸三小隊、古内右近介
二小隊、片倉小十郎二小隊、胸壁に備え、万一猪苗代隊敗北、敵尾撃する時、防禦すべし。
一、白河乾の方山に添い、中島兵衛之介一大隊にて白河本道より会津境迄、戦地綿々線路のあるに付、要所要所へ控え、討入りの虚勢を張る事。と定め、合印、合言葉も定めた。
白河城夜襲の計画は実行となり、軍の指揮は泉田志摩・増田歴治之が任じられ、七月十四日真夜中、宿陣を発し根田に着陣した。泉田志摩は途中大和久より脱線して、遂に戦地に達せず、当日は大雨で泥棒脛(泥深く、脛までぬかること)を没し、軍隊の行動自由ならず、そのため七月十五日未明に進出する細谷十太夫・大松沢総部之輔隊は、遂に期に後れて、夜ほ既に明けた。辰の刻(午前八時)に及び濃密なる山霧が零たるをもって、当日の戦いは不利なるを察し、参謀真田喜平太は引揚げの令を発するも、西軍はすでに会津兵の関門に迫り来るのを発見し、合図の砲を発すると共に、四方の胸壁より大小砲銑を発して繰り出しため、たちまち交戦となった。