十九、土方歳三、出陣ー1、2

前回、十九、土方歳三、出陣ー1が抜け、失礼しました。今回1,2を改めて掲載します。

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー24

生江昌平

十九、土方歳三、出陣ー1

『慶応日記』によれば、
〇七月十一日、新選組惣隊長土方歳三泊、彦四郎様宿に成り、上下内藤様御応接に参る-とあり、翌日、土方隊長附属(隊士)残らず羽太口へ出陣となる。なお御本陣に土方様へ御酒下され-。土方は福良に滞陣したようである。
『慶応日記』には
〇七月十七日、西郷頼母様思召被為在候に付、家老職召上げ若年寄上席仰付け候の由、甚だ不祝に有之候。
とあるが、『会津戊辰戦史』には
〇七月二日、西郷頼母、総督を免じられ、内藤介右衛門これに代る。東方面戦闘の成績宜しからざるにより、この命ありきという。とある。
これらのことで、家老萱野権兵衛が来訪したり、内藤介右衛門が若松へ入ったりと、情報交換が行われたようである。
「七月十八日、賊下賊者二人、大谷地より召捕り参り、内藤様、土方様、御前(藩主)前に於いて一人を糾明する。阿波藩士という。
夜に入り再度糾明士一人が白状する。
この日の夜、若松より家老萱野権兵衛が来る。
内藤介右衛門が若松へ出立、白河ロの情勢が話し合われ、その報告と思われる。
十九日、土方ほ米村吉右衛門を呼び出し、白河の形勢を聞く。萱野権兵衛は捕えた阿波藩士二人と面接、改心の様子を聞く。
二十日夜、内藤介右衛門が帰陣し、小森一貫斎、辰野源左衛門、新選組山口次郎らと軍議する。再び白河城攻撃が練られたのであろうか。翌日、隠津官に参拝し武運長久を祈願する。
福良陣屋跡と新選組が宿陣した御用場跡(1969年5月撮影)。
また土方歳三が福艮滞陣中に、白虎隊と出逢ったという話がある。白虎隊士らは土方と隣合わせの宿であったという。
会津戊辰 白河戦争と新選組ー25

十九、土方歳三、出陣ー2

『旧夢会津白虎隊』の著者・白虎一番土中組、永岡清治は
○…時に土方歳三、福良に陣し、方面に任して白虎隊の隣舎に在り。常に少年と親しみ且つ談話して士気を励ます-とある。
白虎隊士の少年達にとっては、戦争のための出陣というより、現代の修学旅行のような気分ではなかったのではないだろうか。初陣に胸を躍らせていたのではないだろうか。土方歳三にとっても、若い白虎隊士と毎夜語り合える時こそ、束の間、戦争を忘れ、あたかも教師となり、京都での出来事等々を話したという。若い隊士にとって、土方の話は体験に基づいているだけに説得力があり、いつか話の中に引き込まれ、目を輝かせ身を乗り出して聞き入ったものと推察する。
さらに会津に残るこんな逸話がある。
約三ケ月半ぶりに復帰した土方が、福良本陣を訪ねた。
街道の警備に立つ白虎隊士が、騎馬のまま通りすぎようとする土方に停止を求めたが、そのまま通り過ぎようとした土方に発砲した。土方は馬首を返して「新選組の土方歳三だ、本陣に行くところである」と答えた。名を聞いた白虎隊士は驚き、顔色をなくした。土方ほ「君は任務を守ったものである。黙って通り過ぎた私が悪かった」と走り去ったという。これらが真実か否かは探る術はない。
※新選組の宿舎は「福良御用場」と言われている。私が訪れた一九八二年八月には当時のまま残されていた。
七月二十五日、藩主喜徳、俄に九ツ時(正午)白虎隊を率い出立となり、原宿に一泊後、猪苗代の土津神社の藩祖保科正之を参拝し帰城する。
宰相松平容保が越後口へ士気鼓舞のため出馬するためであった。前述の『旧夢会津白虎隊』の永岡清治は
○…帰城は蓋し越後事急にして、老公(容保)越に出馬するの意ありて、喜徳公を召し返さしめたるなり。余の家に帰るや、母門に侍って待つ。既に戒衣を脱するや、諸弟と団楽膳を囲む。白虎隊士は十中の九は初めて旅舎に宿泊したることなれば、奇談、笑話限りなく笑い興じて蚊帳(かや)に入る…。