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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー23
生江昌平
十八、第六次白河戦争-2
別石より進みたる会兵小原宇右衛門、木下慎吾等、時刻を失し仙台兵すでに矢吹駅を焼いて退くを以て、遂に戟わずして小田川に退守するに至り。 (『七年史』)
飯野藩兵もまた奮戦する。隊長・森要蔵(五十九歳)身を挺して進み、刀を振るって縦横無尽、流血淋凛、遂に敵兵三人を斃して戦死する。
要蔵の次子虎尾(十六歳)紅顔の美少年なりしが、父と共に奮戦して死する。
飯野藩(上総飯野、藩主保科正益=まさあり、二万石、譜代)は会津藩松平家と同族であり、前藩主正もと(木の下に一)の三女・照姫が、会津八代藩主容敬(まさたか)の養女となった関係もあり、森要蔵らは藩を脱藩し、会津救援に出陣していたのである。森要蔵らの墓は西郷・羽太の大龍寺の会津藩士と共に「戦死之墓」に埋葬されている。
一方この日、仙台城では白河城攻略の軍定を開き、十五日に新たな兵力を投入した攻撃を行う事を決議されていた。
七月二日、会津白河口総督西郷頼母、戦績不振につき総督を罷免され、内藤介右衛門が後任となる。内藤介右衛門は藩主喜徳出馬に随行して福良本陣に宿陣している。
七月二日、六月に会津を発った列藩同盟盟主の輪王寺宮一行ほ米沢経由で仙台に至り、仙岳院で藩主伊達慶邦らに令旨を下す。 十二日には白石城に列藩同盟の「公儀府」を設置する。
六日には同盟軍の「軍令」が諸藩に送達される。
七月三日、藩主伊達慶邦は白河の戦況不利のため、自ら出馬を願うが、病気のため坂英力を陣代(代理)とし、自ら正宗の宝刀を与え出陣させる。坂英力が率いた隊は五番大隊士一小隊(冨塚熊之助隊長)、投機隊(桜田敬介隊長)、ほかに伊達安芸の手勢三小隊、衆義隊二小隊(小竹長兵衛隊長)、軍監小島勇記、真田の手勢一小隊、何れも七月十日に須賀川に着降した。
七月七日、白虎一番・二番土中組、三月中旬から仏蘭西式訓練を終了し、八日藩主喜徳の守護として若松を出立、赤津
へ宿泊し、九日福良に着陣、仏蘭西式訓練の成果を披露する。
この時、白虎隊が所持していた小銃は、旧式のヤーゲル銃だった。『戊辰戦争実歴談』の著者・白虎二番土中組酒井峰治は「常時用いる所の砲ほ『ヤーゲル』なるを以て、火門塞りて丸を発するに苦しむ」としており、そのため八月二十二日に松平容保に従って出陣する際には「短く且つ軽くして、白虎隊に頗る適当せり」という新式の馬上銃との交換を申し出て、受け入れられている。