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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
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新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー20
生江昌平
十七、第五次白河戦争 ・棚倉城奪取される-1
六月二十三日、大総督府参謀鷲尾隆聚が阿波藩兵を率い、白河に入り、常宣寺を本営にした。
西軍の総兵力は五千名を超すに至った。東軍も戦線を立て直すため、仙台・会津・二本松・三春の各藩の兵をもって増強した。
西軍参謀板垣退助は、浜通り平潟上陸軍の進撃作戦に呼応し、戦局展開を策し得るとして、時機到来と断じ、棚倉城の急襲を強行することとした。
六月二十三日夜、棚倉街道の関山麓の会津陣営へ西軍夜討ちをかけ、会津軍多くの死者を出して棚倉へ逃走する。
六月二十四日、西軍七百人、二手に分れて白河を発し、一隊は関山より進み、一隊は郷戸村に向い進み東軍の塁壁を襲う。棚倉口の会津小森一貫斎・木村兵庫・土屋鉄之助、仙台佐藤宮内、棚倉兵、相馬兵等、予め郷戸村の切り通しに胸壁を築き、木村の一小隊は外塁に看守させ、卯の上刻(午前六時)西軍三面よりこれを攻める。
木村の隊頗る防戦に努む。土屋の隊は棚倉兵と共にこれを援け、戦い利あらずして番沢に退く。
一人木村の隊返戦し、小山田大学死す。小森隊、仙台・棚倉・相馬の隊来て共に闘うといえども、西軍新たに兵を加え、数次に戦うが、支えること出来ず退いて金山の塁にこもる。西軍、森林の径路を廻って金山の背を衝けば守ることできずに棚倉に退く。木村隊、棚倉・相馬兵、多く死傷する。西軍郷戸、金山破って棚倉城に迫る。
城中兵士多くは出陣しており、留まる者僅か三十余人と老幼婦女のみ。有志の士、道川に進み出て長州・土州・忍兵と戦う。薩摩・大垣・黒羽藩兵、横に襲い来たれば、川岸の塁壁にこもり、暫く奮闘す。西軍突撃する者潮の如く、東軍衆寡敵せざるを知り、火を城に放ち釜子に奔る。木村、小森の兵は須賀川に退き、仙台・相馬の兵は共に笹川に退き、相馬兵は遂に中村に帰藩する。
この夜、会津兵ほ西軍に制圧された釜子に忍び込み、土蔵より金穀を奪い取った。翌日、この騒ぎによって棚倉宿陣の薩摩・長州・土佐等
の藩兵が釜子に出張するが、既に会津兵の姿はなく、民家に火を放って帰営していた。
六月二十五日、会津兵坂平三郎・木本内蔵之丞・軍事方及び小原宇右衛門、大谷地より白河城を攻撃するため六反山、金勝寺山に進撃して戦うが、敗れて大谷地方面に退く。
○本隊十八人、田口下陣廿八人、下降十四人、御陣将に付属、八子石坂へ出張。木本隊、金勝寺辺り迄進み、応援の兵さらに無く、一旦引上げ、無念に覚え候付、そのため応援大谷 地口迄詰候処、追々引揚西軍賊頻りに追う候付、同所に暫時防戦、当隊の一同怪我無く引揚げ候事。 (『会義隊陣中日記』)
○廿五日鶏明、本陣に集合し卯の刻(午前六時)大谷地に至り二手に分れ、左右の山より進軍す。山上に至り開戦。敵と対する距離、僅か二、三十間を隔てて戦う。敵は胸壁より激しく発砲、味方不利の地形にして、勝算なく退却に決して引き帰る。敵も追撃せず。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
六月二十八日、宇都宮の戦いで負傷し、田島陣屋で療養中であった旧幕第一大隊総督の秋月登之助、越後口脱走兵三十六名を率いて上小屋村に至り宿陣、同所で滞陣中であった新選組は中地村に宿陣する。