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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー19
生江昌平
十六、第四次白河戦争
〇六月十二日、列藩大挙して白河城を攻める。
棚倉ロ、番沢より会の純義隊、小森一貫斎、木村兵庫等、先鋒となりて棚倉兵、相馬兵と 並進してこれを撃つ。既に白河城下に迫らんとせしに、薩州兵横合いより応援し来たりければ、棚倉兵、相馬兵共に戦わず退きけれぼ、小森、木村、純義隊等も止まり戦うことかなわず、共に番沢に退く。
根田、和田山より仙台細谷十大夫、大松沢掃 部之輔、白河口なる愛宕山に上り、愛宕山地方よりは会津遠山伊右衛門、井深守之進、野村左馬之丞、大谷地口別石よりは仙将中島兵 衛之助、会将高橋権太輔、福島兵等追撃し、大谷地口の薩摩、土州、忍兵来たり戦う。薩州、土州の兵、森林径谷を廻りて大谷地の左の沢合より突出しけれぼ、会兵左顧して退き、再度返し戦わんとせしも、根田口の東兵大いに敗れて、隊長遠山伊右衛門、野村左馬之丞、井口源吾を始めとし、死傷頗る多かりけれぼ、遂に返戦するを得ず。
米村口長坂より会兵上田八郎右衛門、相馬直登、土屋鉄之助、中根監物等、折口より蟻川友次郎、二本松兵等並んで土州兵と戦う。会兵、長坂山に一隊を伏し、西兵の白河城過るを待って、これを横撃して土州兵を破りて追撃しければ、西兵まさに潰れんとせしに、薩摩兵来たりて援すけれぼ、会兵三方の敵を受くるの姿に至り、急に退きて阿武隈川の塁壁にこもる。西兵は長坂村に放火して退きけり。
釧石より進みたる会兵、後れて時機を失し、戦わずして帰る。(『七年史』)
またしても東軍は白河城奪還に失敗する。
この日の戦いは五月一日に次ぐ、白河戦最大の激戟であった。二本松兵十二人、会津兵二十七人、仙台兵七十二人、棚倉兵十二人、米沢兵一人の死傷者を出したが、西軍は僅か十一人であった。
西軍には五月二十九日、日光今市守備の参謀板垣退助が土佐勢を率いて白河城に入り、同日、薩摩小銃一番隊、同三番隊、一番遊撃隊が江戸を出立し、六月九日に兵具一番半隊、一番大砲隊半隊が白河に到着した。ますます西軍の兵力は増強されていたのである。
六月十五日、泉藩(藩主本多忠紀(ただとし)、二万石、譜代)は半谷傍之丞を使者として、矢吹の仙台陣営に遣わし、六月十七日に至り、矢吹在陣の小森一貫斎らに西軍の平潟上陸を報知、救援を依頼し、小森以下、仙台・相馬藩兵と共に棚倉出陣を決する。