十五、会津藩主、白河ロヘ出馬-1

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー18

生江昌平

十五、会津藩主、白河ロヘ出馬-1

〇五月廿六日、若殿若狭守様、白河口へ御出馬に付、我が隊は御供すべき旨命ぜらる。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
○廿七日辰の刻(午前八時)頃、一同城内に整列して御出馬を待つ。午の下刻(午後一時過ぎ)に及んで御出馬あり。
宰相様(容保)様、黒金門迄見送りあり。若殿様は独乙人のスネルより献上の洋服を召され、御馬上にて御出発。城下の土民、多く路上に出て御見送り申上ぐ。滝沢村名主山三郎方(滝沢本陣)に御休息、御召し替えありて、酉の刻(午後六時)原村に御着陣。白虎二小隊は此処まで供奉す。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
藩主松平書徳の出馬には、鳥羽伏見以]米の部将、家老内藤介右衛門が実験指揮官(勢至堂口の総督)として随行した。大目付・軍事奉行鈴木作右衛門が原宿まで出迎えた。
五月二十八日、原宿で砲兵隊の演習を謁見、翌二十九日福長に着陣、六月九日まで滞降する。
その後、三代に出馬(二十三日まで)、大平(二十三日出張)、福良に帰陣する。
牧之内に滞降する新選組の中島登は、○…此の時、松平若狭守様、福良村に出陣遊され、当所当隊一同御呼出しに相成りべき旨、会津藩遠野某奉命し来て、直様当村に罷り出、拝謁す。出賜に金若干を以す。右に付当村へ一両日休兵致し、夫より大平口へ出兵命じられる。六月六日大平口へ出兵。両三日休兵。
夫より羽大村迄出張す…。

五月三十日、三春藩(藩主秋田万之助、五万石、外様)、奥羽列藩同盟中に孤立し、家老・秋田
広記が西軍に救援を求める。三春藩は藩主が幼年のため叔父の秋田主税が後見していた。もともと勤王が強く、同盟加入の時も、京の岩倉具視と密約を結び、内応を約束していた。同盟軍に出兵するも、戦いには積極的ではなかった。
福島の千手院。新選組の病院跡。五月二十六、七日の戦いで負傷した島田魁が入院している。
そのため同盟軍から疑念が持たれたと思われる。
七月、同盟軍が棚倉城奪回に出陣するが、浅川の銃撃戦で、味方に発砲し、裏切ったのである。
六月五日、藩主善徳ほ、福長宿で藩兵の撤兵演習を見る。七日、書徳は藩士猪狩恒五郎、渡部直治、小林繁之助を棚倉方面に、中村鎮之助、石山綱衛を大平方面に、奥田鉱太郎、手代木清書を上小屋方面に派遣して戦況を視察させた。
しかし、東軍の白河城攻撃が延期となり、鈴木多門・木村兵庫・小森一貫斎らは、勢至堂方面、岩瀬都万面の会津側重要地域防備の指揮をとる倉沢右衛門(若年寄)に不満の書状を送っている。
六月八日、内藤介右衛門は福長・千手院の新選組病院に負傷者を見舞い、翌九日には藩主善徳が見舞っている。五月下旬の戦闘で負傷した島田魁も入院している。
※この「千手院の新選組病院」を世に知らしめたのほ『白河藩御用達・荒井治長石衛門慶応日記』(以下、『慶応日記』と呼ぶ) である。五月一日の白河戦争で実家の福長の脇本陣・武藤儀右衛門の家に疎開した。治長石衛門の次男で、荒井家の当主を相続した。
六月十日、藩主書徳は三代へ出向き二十二日まで滞陣、翌日大平口へ出張し、福良に帰陣する。
(新選組友の会ニュース149より)