十四、第三次白河戦争-3

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー17

生江昌平

十四、第三次白河戦争-3

新選組は白河関門方面で戦って敗走し、上小屋まで引揚げ休陣する。
この時の東軍「一万有余」と言われているが、
壱番  仙台 伊達伴右衛門  九百八十人
弐番  同  白川 弾正  千弐百参十人
参番  同  片倉登之助  千六百五十人
四番  棚倉 片岡善左衛門  八百五十人
五番 二本松 阿部甚五左衛門 六百八十人
六番  福島 柄倉帯刀     百参拾人
七番  相馬 木村友之丞     弐百人
八番  南部 柳原伊蔵    九百五拾人
九番  津軽 三浦六郎左衛門  千三百人
十番  三春 板倉若右衛門    弐百人
十一番 米沢 色部市野右衛門   参百人
十二番 会津 西郷頼母    弐千八百人
内藤介右衛門

惣勢合 壱万弐千弐百七拾人
と『白川詰人数控』に記録されているというが、今までの史料にも記されていない南部藩、津軽藩などは、庄内藩応援に出陣しているはずで、白河にほ来ていない。この数字は恐らく同盟軍が数ヶ月に及ぶ奥羽地方で、西軍と戦った総人数ではないだろうか、会津の内藤介右衛門などほ、この日に藩主に随行して白河口福良に着陣したばかりである。また一万対五首の戦いであれば、いくら火力の違いがあっても、東軍が簡単に敗走となることは考えにくい。果たして記録はいかがかなと思われる。
五月二十七日、東軍昨日に続き、白河奪還の戦いを展開する。
○同廿七日、当隊、会津遊撃隊合兵して大谷地村より白河口へ向う処、早敵兵当村迄繰出し、昼九ツ時(正午)より戦争と相成り、味方兵隊残らず出て撤兵配って烈しく打掛ければ、敵追々引揚、一旦勝色に相成り候処、味方応援の兵なくして遂敗走して牧之内迄夜中引揚ー(『中島萱覚書』)
牧之内へ退いた新選組は数日休降している。

○同廿七日、再挙白河城を襲う。賊己(すでに)金勝寺山嶺に胸壁を築き固く守る。以て占領する能わず。退いて大谷地村西方谷地を隔て対戦、数賊あり、数人密かに谷を渡り来る。隊長これ
を認め、大に声を励まして〝賊来れり、汝等何ぞ進んで生檎(いけどる)せざる、葦丸を持ちたる甲斐、何処に在るや。声、雷ていの如し。賊、狼狽して去る。日暮、戦決せず(斎藤勇治負傷す)。
この時に当たり大谷地火を失す、姻焔天を焦す。此の日、賊兵、大谷地村酒蔵庫中に潜み、我軍大いに狙撃せらる。此れを以て火を放ち退くと云う。日全く暮れ、戦止め退く。我隊士も悉く此処(切り通し)に在り、路傍に整列し人員を調査する所なり。すでにして本営より送る料を粮(兵糧)を以てす。これを喫して飯土用村に着す。爾後(そのご)、ここに陣し、切り通し(村より二里弱)に胸壁を築き砲門を設け山上に交番して守る。(『暗涙之一滴』)

※『暗涙之一滴』は朱雀四番寄合組に編入された三沢主税(当時十八歳)が戊辰戦争後に筆記したもので、原題は『長夜の夢』という。戦後、名を千賀良と改めた。

この日、会津藩主松平書徳が白河ロへ出馬している。

(新選組l友の会ニュース149」より転載)
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