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会津戊辰 白河戦争と新選組ー14
十二、第二次白河戦争-2
生江昌平
白河城の会津軍総督西郷頼母は、馬を馳せて叱咤激励するも、潰乱制すことできず、決死進んで敵軍を衝かんとするが、朱雀一番土中組隊
小隊頭・飯沼時衛が轡をとって「総督は今此処で死するのは時に非ず。宜しく退いて後図を計るべし」と諌める。頼母は聴かず、飯沼時衛は馬首を北にして鞭をうつ。馬は向寺の方面に走り、滑川に至る頃、敗残兵集まる者、僅かに三小隊に過ぎなかった。遂に勢至堂に退いた。
新選組は勢至堂に退き、翌二日に三代に転陣する。三日、会津藩土成田助九郎と新選組隊士が郡山八幡村へ取締と称して出張している。勿
論探索を兼ねていたものと思われる。
負け続けた会津軍は寄合組中隊頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、土中組半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞等の諸将校、皆相前後して戦死、会津藩は三百五十余人の戦死者といわれている。同盟軍戦死者六百八十二名(一説に七百十二名)、西軍の死傷者七十余名、僅か七百余名の兵力で三千名に近い大軍を撃破し、白河城を奪った。
この日、二本松兵七百人及び会津藩士坂十郎は、一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率いて須賀川を発し白河へ向かう途中、砲声を聞き、馳せ
て会戦せんとするも及ぼず、中新城に退く。敗戦後、仙台、二本松藩は矢吹、須賀川に陣し、会津藩は長沼、勢至堂、三代に退いた。西軍ほ
白河城に入城した。
白河藩町方会計掛・石井重石衛門(白河藩御用達・荒井治長石衛門の実弟)は、五月一日戦争後は大越又右衛門(甥)と共に会義隊に入隊
し勢至堂ロの守備に当たる。