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会津戊辰 白河戦争と新選組-11
(新選組友の会ニュース118号より)
十一、第一次白河戦争-2
生江 昌平
閏四月二十六日、会津藩西郷頼母一行、白河城に入る。
○東方面藩鎮撫総督西郷頼母、副総督横山主税、小森一貫斎、進んで白河の鎮撫に入城せらる。時に城内には会義隊、新選組、純義隊、青龍一番土中半隊、朱雀一番足軽隊、それぞれ隊長の面々もある。其の中に朱雀足軽隊長日向茂太郎、原方街道押えに向うべきの旨にて、長山に塁壁を築きて、大砲を仕掛けて待つ。其の外、白河内地へ外れ、白坂口或いは棚倉口市町の末に、適柴火を燃やし番兵を配る。ここに於いて純義隊小池周吾、軍目宮川六郎、新選組隊長役山口次郎等、敵は芦野に有り、然らば境明神へ外張りを設け、白坂迄も遠索伏聴を遣わし戒厳せざれば、此の白河城を持つこと不能と、頻りに陣将西郷頼母へ建白す。其の外、大越又右衛門も、此の事を以て野田進へ迫って建白すれども、此の策遂に不行。(『若松記節略』)
藩兵の数に奢ったのか、西郷頼母は山口次郎ら数人の「境明神から白坂口まで」の防禦線構築の提案を無視したのである。
二本松藩は白河応援のため、二十七日番頭丹羽右近・高根三石衛門・軍事総裁家老丹羽丹波の組、銃兵六個小隊が派遣され、同日夜、本宮
に宿陣した。二十八日白河へ出立の所、先の須賀川には仙台勢が宿陣していたので、笹川・日出山南宿へ宿陣した。この日は仙台勢・棚倉勢
が白河城に入城していた。二本松勢は五月一日に須賀川を立ち、矢吹まで進んだところ、白河城が同日西軍に占領されたとの報に接し、笹川
まで退き宿降した。閏四月二十八日、仙台藩参謀・坂本大炊以下、白河に到着し、横向の一柳四郎左衛門らも入城する。棚倉藩平田弾右衛門
が一小隊を率いて到着し、兵益々勢い盛んとなる。
一方、二十九日、奥羽列藩同盟加盟の諸藩士、新選組も布陣稲荷山の遠望仙台の外人屋で会津藩土手代木直衛門、小林平角らも列席し、二十一日に調印された盟約書の修正がなされた。大国の強権を否定し、同盟諸藩の衆議による義務や制約が打ち出された。
この日、西軍の白河来襲の報があり、守兵は棚倉ロ・白坂口・原方街道に出陣するが、西軍は白坂に止まる。白坂口守備の新選組は、援軍
到着に仙台藩兵と交代して城下の脇本陣柳屋に休陣する。