十一、第一次白河戦争-1

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-10
(新選組友の会ニュース118号より)

十一、第一次白河戦争-1

生江 昌平

閏四月二十二日、奥羽列藩、白石で会議の上、盟約書に調印、庄内追討を求める鎮撫総督府に対して、連署して解兵届を提出。翌二十三日、諸藩の重臣が白石に会して同盟を協議し、福島に軍務局を置き、西軍を討つ策を定め、仙台藩相但木土佐は仙台城で軍資金、糧食、兵器、 弾薬等を掌り、同坂英力は福島の軍務局(長楽寺)にあって専ら攻守の指揮を掌る。会津もま た陰にこれを協力する-などを定めた。
閏四月二十四日、間諜が薩摩・長州・佐土原藩兵、今朝大田原を発し、今夜芦野に宿すと報ずる。鈴木作右衛門、木村熊之進、小池周吾、 野田進、新選組山口次郎らは戦略を定め、白坂口へ新選組を先手とし、遊撃隊がこれに次ぎ、棚倉ロへは純義隊、原方街道へは青龍一番隊が これに当たり西軍を待つことに決する。

閏四月二十五日暁天、芦野の西軍襲来し、白坂関門へ攻撃する。
○遊撃隊遠山伊右衛門、新選組山口次郎ら、隊兵を励し、透間もあらせず打ち放せしむ。
大平口の日向茂太郎も、米村迄出兵屯居せし折節なれぼ、此の砲声を聞き、俄に進んで白坂口の横合いより応援して砲発す。大砲隊樋口久吾 は白河九番丁より進み掛けて白坂口にて苦戦す。
棚倉口の方よりは小池周吾、原方街道よりは鈴木作右衛門が討って掛り、苦戦のところへ、また横合いより義集隊今泉伝之助、井口源吾等、歩兵を率い励まして砲発す。薩藩、長藩、大垣また忍四藩の兵、芦野より進んで皮寵原にて散兵となって進みしに、会津軍も三衝(く、ぐ)五路に分って敵の至るを待ち掛けたれぼ、西軍三面に敵することを不得ず、総軍引揚げの撤を飛ばして引揚げたり。会津軍境明神に限りに追撃せしめ、軍を白河に凱旋す。斬獲の首級を梟木に掛く。(『若松記』)
二十八日に白河に入った仙台藩士・大槻安広が城門の梟首と立て札を目撃している。
この日の戦いで、新選組隊士菊池央(たのむ)が戦死する。二十二歳であった。白河皇徳寺に墓がある。
墓標表面には誠忠院義勇英銀居士、側面に菊池央五郎と刻まれている。また元新選組で御陵衛士の清原清(武川直枝)は薩摩藩兵として戦死 している。白河城の隣の鎮護神山の薩摩藩士の墓にその名がある。

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