十、会津藩、白河城を奪取

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 会津戊辰 白河戦争と新選組-9
(新選組友の会ニュース118号より)

十、会津藩、白河城を奪取

生江 昌平

○閏四月十六日、会藩始めて兵を大平方面に進む。純義隊長小池周吾、会義隊長野田進、新選組隊長役山口次郎、出て真名子村に陣す。
野田進、内村砂次郎、潜行して白河、棚倉地方の探るに、仙台、l一本松、棚倉、三春、泉、湯長谷各藩の兵、白河城守り、世良修蔵、本
丸に在り-(『七年史』)
※「純義隊」は会津藩士・渡辺綱之助(小池周吾)が、旧幕直参有志らと江戸に於いて結成(二九七人)、四月十二日、江戸より国府台へ脱出し、旧幕回天隊、誠忠隊と岩井で西軍と戦い、その後大鳥圭介、土方歳三らと合流し、安塚、宇都宮、今市で戦い、閏四月四日会津西街道山王峠下で会津藩若年寄・山川大蔵一行と出会い、田島で部隊の再編が行われ、第四大隊となって白河口応援に出立したのである。
「会義隊」は徴募で編成され、隊士七十名。これらの会津陣営は、仙台藩家老より、西軍が大原からいよいよ白河へ侵軍の動き急なるを聞
き、白河城攻略のための出陣となった。
○閏四月二十日暁七ツ頃(午前四時)、会津兵数百人、白河米村ロなる仁井田町木戸より砲発して打入り、会津町・道場町へ一時に放火し、且つ城内へ向け砲発しければ諸藩の兵敗走し、白河城守りの二本松兵避けり。此の時、白河城に火移り半焼せり。防戦の者更に無く、右往左往と散りせしへ会藩難なく乗っ取りたり。        (『東白川郡沿革誌』)
○容保は哀訴嘆願の益なきを知り、田中左内等に兵三百を附し、旧幕の兵と共に勢至堂を経て白河を略せしむ。
閏四月二十日左内等白河に達し俄然火を道場町に放ちてこれを接芽、一挙して城を抜く、諸藩の兵驚愕狼狽、城に火して散乱す、然るに此
の時にあたり、奥羽同盟略成りたるの報に接しけれぼ、諸藩の兵再び来たり、左内等と共に西軍を拒止(やくし)せんと、各々兵を部署して西軍に備える。西軍これを聞き、二十一日大田原を発し、塩崎、油井(旧幕第一大隊と戦)、関屋(塩原守備の会津藩兵と戦)の東軍を撃壌しつつ、二十四日、東野を経て皮龍原に達す。
(『会津戊辰戦争』)
新選組の中島登は「廿一日、白河城に向う。
此の目白河城落ちる。廿二日城下に宿降す」と記しているが、二十日の間違いである。それとも何かの都合で中島は一日後れたのだろうか。

白河城は奥羽鎮撫総督府の下にあったが、二十日早朝、会津軍が攻め、守衛の二本松、平、泉、三春の四軍はあまり抵抗もせずに本丸に火をかけて敗走した。これら四藩は事前に会津に同調し打合せ通りの行動であった。火は城の建物はもとより民家も焼いたが、町民は概ね歓迎の様子である。参謀・世良の部下の三人は白河から脱走したが、全員が死す-とあり、殺された長州藩士の墓は福島・柳町宝林寺に在る。さらに白河を奪った会津軍は、自らの管理体制を敷いた。