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会津戊辰 白河戦争と新選組-7
(新選組友の会ニュース118号より)
生江昌平
九、世良修蔵、斬殺される-1
閏四月十一日、白石で仙台藩主・伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲が会津藩謝罪について面談。
翌十二日、両藩主ほ岩沼の鎮撫総督・九条道孝に拝謁して会津救解の嘆願書を提出し受理された。また白石城に於いて奥羽諸藩による列藩会
議が開かれ、会津救解の嘆願書に署名している。
会津藩家老・西郷頼母、梶原平馬、一瀬要人の哀訴状も提出されている。
閏四月十三日、鎮撫総督九条道孝、嘆願書を受けて副総督の沢為量、参謀の醍醐忠敬、世良修蔵に書面を発してその可否を問うた。これに
対して世良修蔵は
○…一旦、総督府に於て嘆願書を受理したる以上は、これに対し確乎たる指令なかるべからず。乃ち容保は朝敵、天地容るべかざる罪人なれば其の降謝を許さず、各藩速やかに進撃奉功すべしと指令せられるべし。諸藩、これを見て必ず不服沸騰すべきも、一時を糊塗し、而して愈転陣の後は西軍陸続群致すべきを以て、更に軍議を開きて進軍し、賊を塵殺すべし。 (『会津戊辰戦史』より)
世良はあくまで「賊を塵殺」することを主張し、十七日には強硬な命令が下されることになる。
○今般、会津謝罪降伏書並に奥羽各藩歎願書差出し熟覧の処、朝敵不可入天地之罪人に付、難被及御沙汰、早々討入りべき奏成功者也。
鎮撫総督
(『会津戊辰戦史』から)
これを受けて仙台藩は世良参謀殺害を固めたという。
閏四月十四日、長沼出張の仙台藩士・佐藤宮内、同所警備の会津藩士・木村熊之進より世良修蔵殺害計画を聞き、白石の大越文五郎に報告、但木土佐との協議のうえ殺害を容認されている。
閏四月十七日、下守谷村で二本松・仙台・会津三藩による会議が行われる。会津藩の白河城攻略、世良修蔵暗殺などを話し合ったものと思
われる。
翌十八日、仙台藩士坂本大炊・遠藤久三郎が白河城に赴き、世良と面談、会津謝罪の嘆願書取り上げと解兵を訴えている。
一方、仙台藩士佐藤宮内、大越文五郎らは、かねてより世良の悪意に出る命令と横暴な態度に憤り、福島で世良修蔵暗殺を協議している。
また仙台藩士瀬上主膳は世良修蔵の福島訪問を知り、姉歯武之進・岩崎秀三郎とともに土湯口の陣より福島軍務局(仙台藩軍務局、後に同盟
軍の軍務局となる)へ出立した。