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わが愛しのヒラメちゃん-2

 

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は、平成十七年六月発行114号から抜粋しての掲載です。

わが愛しのヒラメちゃん-2

福島雅子

あれはいつのことだったか、沖田は鮃(ひらめ)のような顔だったと聞いたのは。
「鮃?」想像もつかなかった。これは、佐藤彦五郎の曾孫晃氏(故人)が祖父俊宣(幼名源之助)から聞いた話として「ひら顔で目が細く、そうよな。ヒラメみたいな顔をしていたよ」と紹介されている。この話は、林英太郎・谷春雄(故人)両氏の共著 『新選組隊士異聞』に記されている。そして、「他言無用」とされて来たという。何故? 沖田は男ながら自分の顔にコンプレックスを持っていたのだろうか?
それとも後になつて、労咳で夭折した天才剣士が美丈夫に描かれるに及んで、本当のことをいうことはない、幸いに写真もないんだし、本当のことをいって、沖田の人気を下げることはあるまいと、日野の人々は思ったのかもしれない。イメージが崩れるのを恐れたのだ。
まんが家みなもと太郎氏に「冗談新選組」(『沖田稔司アルバム』所収)という作品がある。登場人物は、それぞれ簡潔なデフォルメが施されてあり、その特徴をよく表していた。沖田も。
崩れ気味のおにぎり形の目が寄っていて、黒目が段違いになっている……これこそ、「ヒラメ」に違いない。かわいらしい顔だ。
しかし、漫画の顔を生身の人間に持つて来るのは難しい。小説や映像にかかれる美丈夫ではないのは確かだと思うようになった。


わが愛しのヒラメちゃん-1

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わが愛しのヒラメちゃん-1

福島雅子

沖田総司には、辛か不幸か写真がない。
近藤勇・土方歳三、あるいはその他多くの隊士には晩年のものでも写真があったり、伊東甲子太郎のように肖像画があって、その悌(おもかげ)を偲ぶことができる。沖田にも彼の肖像画なるものがあって、今はもう、こういうこともなくなったのだが、かつては新選組や沖田を取り上げるTV番組では、これが沖田総司ですと紹介されていたから、違う違うと苦笑しながら見ていた。この肖像画は、姉みつの孫・要氏が祖母みつから、総司に似ているといわれていた(それも生き写しというようなことでなく、「どこか」 という程度で、それが単に顔ということではなく、仕草とか癖とかいうことだったのかもしれないと思うのだが……)。
長じて要氏は、沖田を描いた映画で沖田役を演じた月形龍之介の髪型のイメージを加えてモデルとなり、画家に依頼して措かせたというのが、沖田総司の肖像画の真相である。
何の本であったのか記憶は定かではないが、初めてこの肖像画に接した時、私も若かったので、ショックを受けたものだ。沖田といえば労咳で若くして逝き、天才的剣客である。イメージとして痩身。何より美丈夫でなければならなかった。細面で病に苦しみながらも隊務に全力を尽くし、いつも何かに耐えているような顏をしている。そんな青年だった。実際、小説でも映像の世界でも、沖田といえば美丈夫に措かれ、二枚目俳優と相場が決まっていた。
それなのに、その肖像画は、見事にイメージを裏切った。ふっくらとしたお顔で健康優良児……それはそうだ。
これは総司ではなく、要氏なのだから。
本のそれはモノクロだから、余計ふっくらに見えたのだ。以前、赤間倭子氏のお嬢さんが、そのふっくらのところを両側から手で隠して 「ハンサム・ハンサム」とおっしゃっていたそうで、真似をしてみると確かにイメージが変わる。しかし、要氏は要氏で稔司ではない。


新しい土方歳三像を創った山本耕史さん。-2

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新しい土方歳三像を創った山本耕史さん。-2

西海千恵子

いろいろなところで紹介されている、収録現場でのエピソードから、香取くんを支えようとしてきた耕史くんの気持ちの反映かな、とも思うのですが、それだけでもないようにも思います。特に、写真から抜け出てこられたのかと思ったほど、怖いくらいに似合いすぎていた洋装になられてからは、歳さんそのものでした。耕史くんの中に歳さんの存在を感じました。
耕史くんは、天寧寺の近藤さんの墓前で感じた、不思議な感覚について話されていたことがありましたが、あそこには近藤さんへの歳さんの強い想いが残っていて、最初の頃に函館の「最期の地碑」の前で「一生懸命あなたになります」と真撃な気持ちで誓われた耕史くんの気持ちに、歳さんの思念が共鳴したのかもしれません。
最初「耕史くんの歳さん」に魅せられたわたしは、そのうち俳優「山本耕史」が気になり始めました。今までの仕事や、人となりが知りたくなりました。手に入る限りの映像や文字を集めているうちに、俳優「山本耕史」の演技力や華のある佇まいに惹かれました。同時に、ストレートで正直で飾らない歳さんと重なるような、少しやんちゃな人となりにもとても魅力を感じました。
「LOVE ASIA」の番組で歌われていた「理想高く 夢は多く 嘘は少なく」という自作の歌詞そのままのような生き方に、元気と勇気をもらいました。俳優「山本耕史」に巡り会わせて下さった歳さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。

大好きな歳さんを、これほど人間的な魅力あふれる人として演じて下さった耕史くんには、どれほどお礼を言っても言い足りないくらいです。
「新選組!」は、約一年間、山本耕史という人が、土方歳三として半生を生きたという表現がピッタリ来るような演技でした。
「土方歳三といえば山本耕史」と言われるにふさわしいものでした。本当に一年間魅力あふれる歳さんをありがとうございました。欲を言わせていただけるなら、是非あの続編をお願いします。もちろん「耕史くんの歳さん」で。
年末からずっと、海外と往ったり来たりのハードスケジュールですが、お身体に気をつけて、これからも新たな挑戦を続ける 「山本耕史」を魅せて下さい。「これからの目標は~」と聞かれた時「いつも矛盾を抱えて、ゴールに辿り着けない、ちつぽけな役者」とか「大人にならないこと」と答える、少しやんちゃな耕史くんがとても好きです。良い意味で大人にならずに・・・闘い
続ける耕史くんを、これからも見守り応援させて下さいね。
新米ファンですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。
(神戸市垂水区在住)  この項おわり。


新しい土方歳三像を創った山本耕史さん。-1

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新しい土方歳三像を創った山本耕史さん。-1

西海千恵子

「土方歳三」が大好きで、どなたがどう演じられるのかという不安と期待で見始めた大河ドラマ「新選組!」でした。
わたしもご多分に漏れず、司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』からはまってしまった一人です。
外見は、写真が残っているのですが、人となりや生き方、考え方はあくまでも想像の世界です。歳さんに会いたくて、幽霊でもいいから夢枕に立ってほしいと、どれほど思ったことでしょう。到底叶うはずのない夢と諦めていたところに「耕史くんの歳さん」に会いました。一目惚れのような衝撃的な出会いでした。俳優「山本耕史」にではなく、「土方歳三」に出会った感じでした。何か伝えたいことがあって、歳さんが出てこられたのかと思ったほど、わたしのイメージにピッタリでした。
ドラマや舞台の世界を知らない者の言うことですので、気にしないで聞いて頂きたいのですが、わたしは「新選組!」の第一回の放送で、初めて俳優「山本耕史」を認識しました。ドラマに疎いわたしでも「ひとつ屋根の下」で文也くんだった人、くらいの知識はありましたが、どんどんわたしの中の歳さんのイメージに近くなる、「耕史くんの歳さん」から目が離せなくなりました。
毎週欠かさず、真剣に見ていました。ドラマを見て久しぶりに泣きました。
ましてや、録画して二度三度と見ることは今回が初めてです。それくらいはまりました。
「耕史くんの歳さん」は、回を重ねるごとに、存在感というか、耕史くんの周りの空気のようなものが濃くなっていくように思いました。l後半は気がつくと、「土方歳三」その人だと思って見ている自分がいて、我ながらびつくりしました。

近藤さんとの場面で、実際のお二人もあんな雰囲気だったのだろうな、と思わせられることがよくありました。ただ黙って近藤さんの傍らや視線の先にいるだけだったり、アイコンタクトをとったりという場面で、居住まいや佇まいとか、視線や表情といったものに演技以上のものを感じました。昔から「眼は口ほどに物を言い」と言いますが、眼で演技ができる、眼に力がある役者さんだと思いました。


「新選組を創った男の町」ー5(最終回)

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「新選組を創った男の町」ー5(最終回)

仲井正和
(神奈川県川崎市在住)

駅の貸自転車が休業だったことを話すと、「やっていなかったの?」と呆れていた。せっかく大河ドラマを契機に町おこしをやっているのに、町の玄関である駅が休んでいては仕方ない。
もっとも鹿島鉄道自体が廃止の危機に直面しており、噛み合わない部分があるのだろう。
やがて商工会の方がやってきて、また話を伺う。
この史料館は平成十七年の一月十日までの限定である。私が「せっかくここまで掘り起こしたのだから、町でスペースを設けて展示を続けてはどうですか」と提言すると、個人的には商工会のほうに置きたいとのこと。本当は芹澤家をお借りして展示をしたかったが、家が傷んでいることもあり、断わられたそうである。ご当主は石岡で医者をしておられるそうで、「河童」の縁が続いているのかもしれない。
ガイド氏が周辺を案内して駅まで送ってくれると言う。おみやげに「芹澤鴨の里」という日本酒を買う。除幕式のときに参加者に振る舞われたそうである。休日に業務が集中する仕事をしているので、このような行事に参加できないことが歯痺い。平日ならば見物客も少ないのでゆっくり見ることができるメリットもあるが。
「帰りが『新選組号』だといいね」と館員に見送られて車に乗せていただく。
「川崎からいらっしやつたのならぜひ見てほしい」 と案内されたのが、平間家の墓と石碑である。川崎大師を平間寺というが、平間家はそれに由来するのだという。そのことが碑に銘記されている。
車で周囲を案内してくれる。「ここも平間さん、あそこに見える家も平間さん」と、この一帯は芹揮家は一軒みで、平間姓が多いのだと言う。
さきほど見た 「芹澤城址」 の碑の脇から芹澤家墓所へ行く。顕彰碑に満足して、肝心のところを見ていなかった。
「城主だからいちばん高いところにあるんだね」
とガイド氏。うす暗いところにたたずむ墓石群にかつての豪族の栄華を垣間見る思いがした。また故郷に帰ってきた平間重助は、匿われて生涯を終え、関わった人々も今まで知らぬ存ぜぬを通してきたとのことである。

 


「新選組を創った男の町」ー4

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「新選組を創った男の町」ー4
仲井正和
(神奈川県川崎市在住)

商店を過ぎると小さな山をとりまくように道が左右に分かれ、右を行くと芹澤家である。かなり広い敷地があるようで、長い塀が続く。一般公開はしておらず、門は閉ざされている。さらに坂を上っていくと「芹澤城址」の碑がある。一帯を支配する豪族であった。
道を戻り、さきほどの分かれ道を左へ行くと法眼寺で、芹澤・平間家の菩提寺である。山門を入って左手に芹澤鴨と平間重助の顕彰碑がある。碑の裏側に私の名前が刻まれているのを確認した。
この碑に募金をするにあたって、ためらうことは無かった。観光協会が「新選組を創設した」という意味において顕彰しようとしている姿勢を評価したかったし、自分自身への反省でもある。私は新選組が好きなのであって、脱走した者、切腹させられた者、すべての隊士に平等でありたい。平等で、というのは無理があるかもしれないが、ここに名前を刻んだことで、釣り合いはとれたと思う。

史料館に入る。「水戸派」ということもあって、伊東甲子太郎や鈴木三樹三郎らの展示もある。二人は現・石岡市の出身である。関連史跡などの写真がパネルにしてあり、団体客を連れてきたガイドが説明をしている。それを聞く。
館員の方に話を伺う。これまで新選組というのは全く省みられてこなかったとのこと。玉造町駅からここまで「誠」の看板が随所にあったが、「誠の看板なんてとんでもない、と言う地権者もいるのです」と言う。いわゆる「水戸派」はことごとくやられてしまったから、地元としてもいい印象をもてるはずがない。


「新選組を創った男の町」ー3

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「新選組を創った男の町」ー3
仲井正和
(神奈川県川崎市在住)

五月下旬のある日、今度は顕彰碑と史料館を訪ねるべく再び玉造町へ行くことにした。先日訪れたとき駅に貸自転車があることを確認しており、それで散策したい。
鹿島鉄道のホームで鉾田行を待つ。
先日来った 「新選組号」は側線で待機している。
数人の客を乗せて出発。沿線の水田は田植えが終わり、ディーゼルカーは初夏らしい景色の中を走る。小川高校下を出ると右手に霞ケ浦が見える。きょうは晴れているが、もう少し空気が澄んでいれば筑波山が見えるはずである。霞ケ浦に沈む夕日は絶景であろう。
玉造町に着いたものの、窓口が閉まっており、肝心の貸自転車が事務室の中にある。土・日の窓口業務は休みの旨が書いてあるが、土・日こそ人がやってくるのにどうしたことであろうか。もっとも通勤通学が主体の路線だと考えるとやむを得ない。
駅前にタクシーがとまっていたので、「新選組の史料館へ」と告げる。
芹沢地区にできた「新選親水戸派史料館」である。五分ほどで史料館に着いたが、開館まで時間があるので芹澤家周辺を散策することにする。
近くを流れる梶無川に「手奪橋」が架かっており、河童のモニュメントがある。いわゆる河童伝説であるが、これが芹澤家と関わりがある。
その昔領主がこの橋を馬で渡っているところ、河童が馬の尻尾をつかんでいた。領主はその手を斬った。泳げなくなり、魚をとることもできなくなつて困った河童が領主の屋敷にやってきて、腕を返してほしいと懇願した。河童は持参の妙薬で腕をつなげた。腕を返してくれたお礼に薬の作り方を教えたという。その傷薬は芹澤家に代々伝わって、諸国の大名からの快癒のお礼状が今でも芹澤家に残っているのだという県道から右手に入ると前方に小高い山があり、集落がある。「澤屋商店」があり、観光協会による平間重助の説明板がある。平間重助もこの芹沢出身である。
芹澤氏と平間家の間柄は室町時代までさかのぼる。芹澤氏が相州(茅ヶ崎市)から常陸ヘやってきたときに共に移ってきて、芹澤氏に仕えていた。平
間重助は水戸の千波原で行われた追鳥狩に芹澤鴨の父の一員として参加している。芹澤鴨と共に浪士組に参加したのも、そのような間柄であったからであろう。
芹澤鴨が暗殺されたときは難を逃れて行方不明となつたが、実は故郷芹沢へ戻ってきた。平間は芹澤家に悲報を伝えた。新選組のことよりも自分の使命を果たしたのだった。


「新選組を創った男の町」ー2

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「新選組を創った男の町」ー2
仲井正和
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常磐線の石岡で下車し、跨線橋を渡って鹿島鉄道のホームヘ向かうと、香取慎吾氏のポスターと玉造町作製のポスターが貼ってあるのが目に入った。
ホームへの階段を降りると改札口に係員がおり、「誠」の文字が入った法被を着ている。誠の旗もあるが、玉造町観光協会の名前が入っており、どうやら鹿島鉄道に宣伝をしてもらっているようすである。
「新選組号」 は他の車両とともに検閲区で待機している。やがて常陸小川行となって入線してきた。常陸小川は玉造町の手前にある駅で、そこまでの区間運転が多い。私が乗るのは次の鉾田行である。
新型車両のフロント部に「誠」、側面に「新選組号」と、外観は派手である。この私鉄では全国で活躍していた中古ディーゼル車が現役で活躍しており、それを目当てに全国から鉄道ファンがやってくるので、新型車両で正解である。しかもこの車両は水色の帯を巻いている。赤地の「誠」といいアクセントになつている。法被を着ている係員に車両の横に立ってもらい、写真に収める。
若い係員は「オレでいいんですか」と照れているが、法被を着ているのだから撮ってくれと言つているようなものである。
常陸小川行を見送り、閑散としたホームで待つ。やがて常陸小川から先ほどの車両が戻ってきて今度は鉾田行になる。乗り込んで「新選組号」の乗客となる。これで途中の玉造町まで行きたい。
乗客は二〇人程度で、まあまあの乗車率かもしれない。車内にはNHKのポスターが貼ってあるのみである。乗客の一人が「さっそく鴨さん、ひとり斬っちゃいましたねえ」と同席している客に話しかけている。沿線にはカメラをこちらへ向けている人もいる。
三〇分ほどで玉造町に到着した。帰りも「新選組号」の予定だ。駅に併設されている食堂でかき揚げそばを食べる。かき揚げがあまりにもおいしいので秘密を尋ねたら、一回揚げるごとに油を替えているとのこと。地元で採れる「セリ」を使っているそうである。芹澤鴨の故郷の特産はセリであった。


「新選組を創った男の町」-1

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今回からは、平成十七年六月発行114号から抜粋しての連載です。

「新選組を創った男の町」-1
仲井正和
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「新選観のふるさと」と言えば、まず日野と調布が思い浮かぶ。
今年の大河ドラマで関係自治体では新選組で町おこしをするべくさまざまなイベントを企画している。なかでも「新選組を創った男の町」というフレーズで新選組関連に取り組んでいるところがある。芹澤鴨・平間重助の出身地である茨城県の玉造町である。
芹澤鴨といえば小説やドラマなどではかなりの「悪役扱い」で、芹澤一派、いわゆる「水戸派」も同時にイメージが悪い。悪いと思っているのは私だけかどうか分からないが、好感を抱いていなかったのは事実である。しかしそれは私が勝手に思っているだけのことであり、相手に対して失礼である。
芹澤鴨は筆頭局長であった。「壬生浪士組」結成当初、会津藩は費用を出し渋り、芹澤が強談判で話をつけた。
それでも足りなければ豪商から借りた。また「八月一人目の政変」で壬生浪士組は御所へ駆けつけたが、存在を知らない会津藩士が槍を突き出してきた。芹澤は鉄扇で槍の穂先をあおいで、これを一喝した。手荒であったが新選組創設にあたって重要な役割を果たしていたことには間違いない。
今まで各地にある新選組の史跡を訪ね歩いたが、玉造町は行っていなかった。芹澤の出身地であるという知識はあったが、史跡としては何もなさそうであったからである。そこへ大河ドラマをきっかけに町が動き出した。顕彰碑の建立、新選組史料館、ほかにイベントを企画しているようだが、何よりも顕彰碑が建立されることが大きな成果である。大河ドラマブームが去っても、碑はずっと残る。
顕彰碑の建立に寄付をした¢で除幕式の通知をいただいよのだが、仕事の都合であいにく行くことができなかった。また新選組史料館はもう少し時間がかかるとのことで、梅雨入りしないうちに行こうと思っていた。
そうしているうちに、鹿島鉄道で「新選組号」が運行されるという情報を得た。ゴールデンウイーク中で仕事の繁忙期であったが、運良く休みが入ったのでとりあえず「新選組号」だけ乗りに行くことにした。顕彰碑と史料館は時間の都合で次回とした。


新選組外伝 第十二話(最終話)

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新選組友の会ニュース発行者・大出俊幸

〒270-0116千葉県流山市中野久木572-44
電話0471-53-3506 友の会入会希望者はお問い合わせください。

新選組と流山

大出 俊幸
(新選組友の会主宰)

新選組外伝 第十二話(最終話)
暗夜、板橋刑場で近藤勇の屍(しかばね)を掘る

昨夏、流山市文化会館で新選祖の子孫と語る会が開かれ、御子孫の宮川豊治さんが近藤勇にまつわるお話をされた。
あと柳家での二次会に新選組流山本陣跡にお住まいの秋元浩司さんが、アルバムを持参され、「昭和初年、近藤勇の御子孫とい
う方が訪ねてこられ『勇が大変お世話になりました』と言って記念に一枚の写真をおいて行かれた」と。その写真を見た宮川豊治さんが「この子供は私で、髭のおじいさんは勇五郎さんだ」と思わず叫んだ。
勇の甥・勇五郎(のち勇の一子・タマ子と結婚)は板橋で近藤勇の斬首を見届けた後、上石原の実家に帰ったが、遺体をそのままにしておくわけにはいかない、と伝(つて)を頼って三日後の夜八時頃、Lかばね屍(しいかばね)を掘りに向かった。
広い原っぱの向うに番小屋があり、番人に三円渡して勇を埋めた処に案内してもらつた。首のない胴体が勇であるとの証拠はた
だひとつ。肩に残る鉄砲の傷痕(京都の伏見墨染で伊東甲子太郎の残党に狙撃された傷。松本良順の手術で治ったが親指が入るくらいの痕が残っていた)。
その頃、勇の妻つねと娘のタマ子は中野・成頗寺(じょうがんじ・丸の内線中野坂上から五分)に隠れていた。
勇五郎は板橋の刑場から三鷹の菩提寺龍源寺(りゅうげんじ)に運ぶ途次、成願寺に寄って妻子に永の別れをさせたという。同じ頃、千駄ヶ谷の植木屋平五郎の離れで肺結核を病み療養をしていた沖田総司は四キロ離れている成願寺をしばしば訪ねて、おつね母子と語らつていた。「沖田がやって来て、血を吐きましてね」という、おつねの言葉が宮川家に伝えられている。新選組の仲
間と別れ、池尻橋近くの水車のまわる田舎家(千駄ヶ谷・野口英世記念館あたり)で孤独の淵をさまよっていた沖田は、あの夜、近藤の遺体に会えたのだろうか。勇の斬首から二カ月後、沖田は病死。タマ子は一子久太郎を残して明治十九年二十五歳で逝去。一人残された勇の妻つねは明治二十五年世を去った。享年五十六。

昭和初年近藤勇の子孫が持参した宮川家一族の写真
*「広報ながれやま」平成16年4月1日号~平成17年3月1日号掲載