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 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

桜咲きて-4
(第二回 勇忌レポート)

結喜 しはや
(京都在住・作家、歴史研究家)

その折に、郡氏日く、「長岡屋は桑名藩の御用商人」というのも、いろいろと想像の広がるコメントであった。郡氏は、新人物往来社より自著を出版されているが、続いて、同じく著作本のある人達などが紹介された(筆者である私も紹介に与(あずか)り、拙著『新選組一番隊・沖田総司』から少し近藤と沖田の話をさせていただいた。今回の勇忌に出席して、改めて近藤と沖田のつながりの関係を考えた次第である)。
そして、恒例ということになるのだろうか、催しの最後は抽選会である。新選組局長近藤勇を偲ぶにふさわしくもある、ゆっ
たりと落ちついた大人の感のする今回の会では、抽選会もなんだか余裕のあるものとなつた。会場の空気が、どこかふんわりとしている。そのせいか、はずれてしまった方が、実は大当たりとなる商品を、最後にプレゼントされたりのハプニング。これも近藤先生がしそうなことかな。
こうして、第二回勇忌は、和やかななかに終わった。違い日への思いが、涙でなく笑顔でも、この春の一日には合っていますよね。近藤勇さんへも、きっと、皆の安らかにとの願いが届いたと思いたい。
「今日の日は、近藤勇忌ではあるが、新選組忌と考えている」という宮川豊治氏の言葉が、再び嬉しく思い返される時であった。 (了)


桜咲きて-3 結喜 しはや

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桜咲きて-3
(第二回 勇忌レポート)

結喜 しはや
(京都在住・作家、歴史研究家)

午後二時を過ぎて、講演会が始まる。この日の講師は宮川豊治氏。ご子孫が語る近藤勇とは……、と、法会の時とは異なり、今度は楽しみな待ち遠しい時を思う。
案内にあった演題は、「流山の近藤勇と土方歳三」であったが、紹介されたタイトルは、「流山における近藤勇と土方歳三の別れ」。が、宮川氏ご自身も、タイトルからの話のみでなくとのことで、たくさんを語って頂くこととなった。
例えば、昨年のNHK大河ドラマ「新選組!」に関するエピソードでは、宮川氏は、NHKプロデューサーの方に、番組制作の前、何か要望があればと尋ねられ、「近藤、土方、沖田のほかにも多くの隊士がいる新選組なので、そうした人々の多くのエピソードを描いてほしい」と話をされたそうだ。
この結果は宮川氏も語られていたが、作品の後半は、隊士のインサイドストーリーを巧みに配して新選組史を綴り、視聴者を魅きつけることにつながっていった。
また、近藤と土方の出会いについて、彼らの結び付きの深さから推し量ると、その出会いは、日野の佐藤道場という揚がもたらす物理的な、単純なものではなく、「何か」があっての出会いが、肝胆相照らす仲となつたのでは、とのお話しで、大変面白く、その「何か」を知りたく思う気持ちで、心中がチリチリと熱くなつた。
ほかにも、宮川氏は、近藤勇は京都で新選組を結成後、心を許して話せたのは、井上源三郎ではなかったかと思うと語られるなど、多くの興味深いお話をされたので、とても柔らかな、心楽しい時間を過ごすことができたのである。
講演会の後には、先に記した佐藤福子氏、宮川清蔵氏、平拙三氏のほか、この日、参加されていた宮川家のご親戚の方々や、箱館新選組の四部隊に所属した隊士で、旧桑名藩士関川代次郎のご子孫の郡(こおり)義武氏という新選組ゆかりのご子孫の方々の紹介があった。


桜咲きて-2

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桜咲きて-2
(第二回 勇忌レポート)

結喜 しはや
(京都在住・作家、歴史研究家)

さて、この長流寺は、浄土宗の寺院で伊勢の国の生まれである了蓮社覚誉上人大信和尚の開山となる。慶長十一年(一六〇六)、覚誉上人は、東国布教のために訪れた流山に止まり、村の東南にあった「観音松」と呼ばれる老木の松の下に耳庵を結んで布教したという。そして、翌慶長十二年、本寺である東漸寺の人世霊誉上人により、山号を「宝泉山」、寺号を「長流寺」と称するように命ぜられたという。覚誉上人の在住は十三年間にわたったが、元和五年(一六一九)七月十六日に亡くなった。なお、長流寺は、天保七年(一人三六)十月二十九日の出火により堂宇が全焼し、古文書等一切が失われたといい、同寺が再建されたのは、元治元年(一人六四)のことである。
長流寺再建への年月が、近藤勇が誕生して(天保五年・一八三四)、あの池田屋事件で新選組の名を馳せるまでの年月と重なるなぞと、こじつけて思ってしまうあたりが、もうすっかりマコト人である。同様に考えた方は、来年の勇忌には、出席しなくてはなるまい。さらに付け加えると、長流寺は、流山七福神の一つである恵比寿さまをお祀りしている。となると、参加は決まり、であろう。
今年の勇忌に戻ろう。法要は長流寺ご住職高橋一元師の読経のもと、近藤勇ご子孫(勇の長兄音五郎のご子孫)の宮川豊治氏はじめ、氏の弟さんで天然理心流宗家第九代でいらっしやる宮川清蔵氏、土方歳三家の親戚となる平(たいら)作平(歳三の曾祖母は、平家の出)のご子孫平拙三氏、佐藤彦五郎ご子孫の佐藤福子氏等々の御焼香に続き、参列した近藤勇・新選組を愛する人々のご焼香と、粛々として進んだ。
そして、法会の読経が終わった後、もう一度、高橋師のお導きで、皆が手を合わせ、「南無阿弥陀仏」を十回唱えて、さらなる近藤勇の、ひいては志士たちの魂の安らかなることを祈ったのであった。
こうして、長流寺での法要は終わり、勇忌は講演会へと続くことになる。会場は流山駅のそばになる流山商工会館ということから、長流寺の最寄り駅平和台から一駅分の移動である。長流寺を後にし、発光しているような空の下、途中長岡屋跡(現・㈱秋元)を眺めながら商工会館へと向かった。

 


桜咲きて-1 結喜しはや

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桜咲きて-1
(第二回 勇忌レポート)

結喜 しはや
(京都市在住・作家、歴史研究家)

眩しいほどの陽のなかに、咲く花々が揺れる。車窓、ゆっくりと、こぼれるように過ぎてゆく満開の桜。走る流山電鉄の沿線は、訪れる度に、木々の緑が視界から少なくなっていくようだが、それでも、まだ、どこかのどかである。
平成十七年(二〇〇五)四月十日(日)のこの日、第二回目となる近藤勇忌が、千葉県流山市の宝泉山長流寺において、午後一時より催された。
昨年の第一回勇忌は、雨の降る真冬に逆戻りしたと思われた寒い日であったが、昨年より一週間遅くなった今年の第二回勇忌は、桜花咲く、暖かな春美っ盛りのなかに営まれることになつた。
時折、強く風が吹き来て、受付台に置かれた参加者への案内が飛ばされそうになるのを、慌てて手で押さえることも、その風に舞い散る流山の桜を思えば、それはまた近藤勇の生きざまのひとつ。昨年、勇の最期を想い、こぼれた涙は、今年、花びらと変わり、勇の魂の晴れやかなることに、気づかされるのである。
新選親局長近藤勇の法要に足を運んだ人々は、勇個人を超え、なお新選組隊士たちへ、幕末を駆け抜けて逝った多くの志士
たちへ、それぞれの想いを馳せ、お供養をとの気持ちであったに違いない。
お参りに集まった人々男性、女性とも年齢層幅広く、いっぱいとなった長流寺の本堂のなかは、色花も供えられて、華やかな感さえする。
それがまた、近藤勇という人間の生涯を見つめ、弔うのに、ふさわしいと思えるのである。

 


著書「子孫が語る土方歳三」について-2

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年六月発行114号から抜粋しての掲載です。

著書「子孫が語る土方歳」について-2
土方歳三資料館・六代目子孫
土方 愛

この本が出版されることにより、土方家に伝わる土方歳三に関する全てがあと百年 (せめて私の子供達がその寿命を全うする位まで) 伝えられ、土方歳三に関する遺品、新選組に関連する史料が永く、後世まで保存される一助となればと願っております。
そして、生家跡に設けられた「土方歳三資料館」ですが、約三ケ月間の改装工事を終え、平成十七年四月二日に改装開館いたしました。
平成六年の一月に開館してから早くも十一年が過ぎました。開館当初は、知る人ぞ知るといった資料館だったようで、毎月一度、第三日曜日の開館日の来館者は数十人程度でした。最後にお茶を飲みながら歳三に関しておしゃべりするのがお決まりで、アットホームな雰囲気がありましたが、数年前から来館者が増えはじめ、昨年の新選組ブームの年には、ゴールデンウイークなど入館するのに一時間半待ちの行列が出来ました。沢山の方にご来館いただけたのは嬉しかったですが資料をゆっくり見ていただくことがなかなか出来ず、申し訳ない気持ちがありました。しかし、できる限り展示の説明や案内は子孫自らで行うといった姿勢は崩しませんでした。
今回の改装開館にあたっては、展示スペースを三倍に増やし、今までなかなか展示の出来なかった史料なども展示できるようになりました。改装を機に、文字がかすれてしまっていた資料館入口の看板を新しくし、その丸節の檜板に金剛寺の川澄寛主様が浅黄色の文字で揮毒してくださりました。

新たな展示品は十数点ありますが、その中でも「土方歳三生家復元模型」は、故谷春雄様が制作してくださった畳一畳分以上はあろうかという大作です。生家南側の縁側には山丸印ののれんがかかっており、本当に歳三がそこから顔をのぞかせていそうな臨場感にあふれています。また、半世紀近く貸し出されていた歳三着用の鎖惟子と状箱がこの改装開館を機に展示に加わりました。鎖惟子は修復作業を終え、この度、歳三が池田屋事件で着用したと伝わる鎖椎子と並べて展示する運びとなりました。そして、幕末期土方家で使われていた天然理心流の木刀は、祖父の代に人に譲ったものが、ひょんなことから当館に戻ってくることとなり、展示に加わりました。土方家の男子の諱(いみな)に必ず使われる「義」の字が刻まれていて、四尺も長さがあるもので、資料館にお越しいただいた皆様には、その木刀で素振りをする歳三の姿を想像していただけるのではないかと存じます。     一
改装開館前には、今までお世話になった方々を中心に、ささやかな改装記念会を行いました。日野市長以下地元の行政関連をはじめ、榎本家、平家、小島家、宮川家、佐藤家、本田家、松本家などゆかりの家々の御子孫や、現在第一線でご活躍されています新選組研究家の方々にご出席を賜り、私共一同本当に感無量でした。
古い遺品や文書類の史料を、修復しながら展示、保存していくことを個人レベルで行うことは、様々な限界や問題も多く、決して簡単なことではありません。「ご苦労も多いでしょうし、遺品は多くの方々がそうされているように一括して公的機関に寄贈されてはいかがですか。」と、アドバイスを下さる方もいらっしやいますが、歳三の遺品は、この歳三の育った場所で、私達子孫が愛情を持って伝えていきたいと考えています。今回の改装開館を新たな出発点として、また地道な活動を続けていきたいと存じます。
亡き父の遺志を継いで、土方歳三資料館を開館し、今回の改装開館を勇断した館長の母・陽子と、長持ちの中の何百点もの史料を、幾晩も明け方までかかって一緒に整理してくれた姉・千恵、又、いつも縁の下の力持ちでいてくれる夫に感謝しています。今回の本の執筆に関しては本当に三人に励まされ、何とか出版できることとなりました。
そして何よりも、戊辰戦争以来はじめて、土方歳三の子孫である私達に、土方歳三に関しての足跡を印す場を与えてくださりました、大出俊幸様に心より感謝の意を表したいと存じます。

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土方歳三資料館のご案内
(開運村が勝手に載せさせて頂きました)
※団体等は電話予約の上、特別開館有。
所在地
〒191-0021  東京都日野市石田2-1-3 MAP
電話&FAX‥042I581-14
開館時間:12:00~16:00
毎月第一・第三日曜日のみ開館
交通アクセス
(1)多摩モノレール 万願寺駅から徒歩5分
入館料・大人:¥500、小・中学生:¥300
当館に専用駐車場はございません。
お車でご来館の際は周辺のコインパーキングのご利用をお願いいたします。
当館周辺は住宅街にて、路上駐車はご遠慮くださいませ。
バリアフリー設備
盲導犬の受け入れ(受入れはしていません。)
車椅子対応トイレ(ありません。)
車椅子対応スロープ(ありません。)
点字案内(案内はしていません。)
以上、宜しくお願いします。


著書「子孫が語る土方歳三」について

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著書「子孫が語る土方歳三」について
土方歳三資料館・六代目子孫
土方 愛

私が、この本を書く動機となつたのは、資料館を訪れるかたに、「この資料館に展示している史料の解説が書かれた図録はないですか。」、「説明してくださったエピソードなどが載っている本はありませんか。」と聞かれることが余りにも度々あり、「小冊子でもいいから、来館者の皆様に史料の理解を深めていただけるものを出版したい。」と考えたことがきっかけです。
昨年十月に高幡山明王院金剛寺で行われた東軍戦没者慰霊祭の後の歓談の席で、祖父・康の代からお付き合いのある新人物往来社の大出様にご相談申し上げましたところ、本当に有難いことに大出様自ら御担当してくださると申し出てくださり、今回の出版に至ったのです。
また、別の意味からも、書いたものを残しておきたいとの思いがありました。平成二年に、歳三が育った生家が建て替えられたために、十代後半まで生家に生まれ育った私が、その生家の様子を伝えられる最後の世代となつてしまったのです。私の子供達は、現在土方歳三資料館の人口に移築されている、歳三が相撲の稽古をした大黒柱が、以前は生家のお座敷でつやつやと黒光りしていたのをじかに触って育ったわけではないし、中島登や小柴長之助をはじめとする生き残った隊士達が訪ねてきた生家の仏壇に手を合わせたこともありません。歳三に関する事、土方家の歴史が封印されてしまわないためにも、後世まで、土方家に伝わる土方歳三、また、その歳三が育った土方家に関する記録を残しておきたいと考えておりました。
本の内容は土方家に伝わる口伝や古写真、史料とその解説が中心になつています。
口伝の中には、あまり一般的には知られていないエピソードなども載せてあります。「女は下の下なり」のエピソードに関しては、叔母などは、「これ、公表してしまっていいかしらね。歳三さん誤解されないかしら。」 などと少し心配しておりましたが。また、生家や石田村周辺、歳三とともに暮らした家族の古写真などを豊富に載せ、歳三青年時代の生家敷地の見取り図や土方家の家系図などもいれ、読んでいただいた方に、歳三が育った頃の土方家の情景が浮かんでくるよう配慮しました。
また、土方歳三に関する史料集と読んでも良いほど、できる限りの史料と読み下し文、歳三遺品の写真を載せま
した。歳三直筆の書簡類、豊玉発句集、殉節両雄の碑、加藤福太郎書簡や安富才輔の書状など歳三の俄に関連して書かれた史料等。それから、歳三が俳句に関して影響を受けた祖父・三月亭石巴、長兄・為次郎、俳句の師・要五の句も載せました。俳句がお好きな方には、歳三を取り巻いていた俳風がどのようなものであったか、感じていただけるのではないかと存じます。
原稿を執筆するにあたっては、各子孫の方々をはじめ、本当に多くのゆかりの方々にご協力いただきました。心より御礼申し上げます。
つづく


三谷幸喜の大河ドラマ 「新選組!」-2

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三谷幸喜の大河ドラマ 「新選組!」

その2

黒須 洋子

今回の「新選組!」は原作がない。
三谷氏のオリジナル脚本である。そのために、子母澤寛の 『新選組始末記』や司馬太郎の『新選組血風録』『燃えよ剣」丑が世に出たのちに、様々な研究家によってあきらかにされた新しい史実が採用されていて、私のこれまでの欲求不満が解消された。斎藤一と藤堂平助が若いというのがいい。相撲興行をしたのをとりあげてくれたのは嬉しかった。池田屋も、次々に旅籠を御用改めしていってゆきあたったと描いたのは、このドラマが最初だ。土方の洋装も江戸に帰りついたときになつていた。流山に行く前に五兵衛新田にもちゃんと寄っていた。もちろん新選組が好きで詳しい人にとっては、描いてほしかったことや登場させて欲しかった隊士がまだまだあって、不満だったかもしれない。
今年の「義経」が「久々に大河ドラマらしい大河だ」と評されているのを読んで、前年の大河は大河らしくなかった、と思われているのか、と私は少し驚いた。私の目から見たら「新選組!」は、三谷草書の過去の大河ドラマヘのオマージュ、といった印象がある。大河ばかりでなく、過去の新選組映画やドラマヘのリスペクトもある。
それは栗塚旭や島田順司、瑳川哲朗をキャスティングしたからという意味ではない。過去の様々な作品が三谷氏の
血となり肉となつている、という意味だ。私は「黄金の日日」のような大河ドラマをまた見たいと思っていたが、そんな私に 「新選組!」はジャスト・フィットした。不思議なことに知人の「黄金の日日」フリークも「新選組!」には相当はまっていた。私も知人も、
両作品に〝同じもの″を無意識に感じとったのだ。それは「歴史は面白い」ということ「歴史上の人物は、じつに魅力がある」ということ、それらを「日日」の市川氏も、「組!」の三谷氏も、ドラマで一生懸命に伝えようとしてくれたこと、それが歴史ドラマを書く人の正しくあるべき姿であると、私は心から思う。
(了)


三谷幸喜の大河ドラマ 「新選組!」 その1

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今回の掲載は、平成十七年六月発行114号から抜粋したエッセイです。

三谷幸喜の大河ドラマ 「新選組!」

その1

黒須 洋子

平成十六年のNHK大河ドラマ「新選組!」も放映が終わって、すでに三か月がすぎた。はや完全版DVDの壱が二月に、総集編が三月に、完全版の弐が四月に発売される。この原稿を書いているのは三月半ばだが、TV雑誌「ザ・テレビジョン」 の第四十三回ド
ラマアカデミー賞の最優秀作品賞、主演男優賞、助演男優賞(山本耕史)、脚本賞、キャスティング賞を受賞している。また日刊スポーツ紙のドラマグランプリでも中間発表で作品賞、主演男優賞、助演男優賞で高得点をマークしている。
「新選組!」は、高視聴率という〝記録″は残せなかったが、見た人の〝記憶″に残る作品になりつつあるのだろう。
テレビドラマは大勢のスタッフとキャストで作るものだが、私の関心は、いつも脚本を書く人に向けられる。二〇〇四年の大河ドラマの内容が決まったのは、まず三谷幸喜氏に大河ドラマ執筆のオファーがあり、その三谷氏にNHKの人がいくつかの候補を示し、三谷氏が「新選組」を選んだという。
新選組は毎年、候補にあがっていたそうだ。その話を聞いて、私は三谷氏に新選組が託されてよかった、と思った。
新選組は残酷に描こうと思えば、いくらでも残酷にできる。悲劇的に描こうと思えばいくらでもできる。でも、楽しみに見るテレビドラマなのである、見たあとに暗あい気持ちになるのはいやだ。例に出して申しわけないが、昭和五十八年の「徳川家康」は暗くてまいった。平成四年の「信長」も気分が滅入った。大河ドラマウォッチャーの私だが、これらは途中で見るのをやめてしまった。三谷氏はコメディ作家であるし、作風がいつも明るい。それに大河ドラマが大好きだったという。それもベストワンが市川森一脚本の「黄金の日日」というではないか。じつは私のベストワンも「黄金の日日」なのである。
三谷氏は「群像劇が好き」と語っているが、その面目躍如たる場面が、浪士組の結成ー>中仙道ー>京都で崩壊、だった。てんやわんやの大騒ぎ、といったふうで実に面白かった。近藤派と芹沢派以外に、根岸友山、祐天仙之助、祐天を仇と狙う大村達尾、粕谷新五郎などなど、新選組ドラマでここまで描いたものは空前にして絶後だろう。村上俊五郎が山南敬助にからむところまで描いていた。そこへ土方が現れて山南を助けるのだ、拍手喝さいである。
上洛後、清河八郎が裏切り、怒った芹沢鳴が斬るといって滑河を追い、とめようとする近藤たちも京の町を走り、大村が仇を討とうと祐天を追いまわし、そのうえ火事が……という大騒動。
まったくこんな展開は三谷氏ならでは、である。「婚礼の日に」や「政変、八月十八日」も、彼の真骨頂。しかし物語がシリアスになるに従って、こういう〝てんやわんやシーン〟 がなくなってしまい寂しかった。
「新選組!」には、これまで滅多に登場しない人物も出た。病弱の阿比留鋭三郎は新選組マニアには大うけだった。いじめキャラかと思った松平主税助は、なんとギャグキャラで少しも憎めない。八木家の奉公人だったという設定の佐伯又三郎は、彼なりの大切な夢を持っていた。殿内義雄は、気弱だが誠実な男だつた。芹沢派の野口健司は、素朴な気のいい若者だ。三谷氏の、登場人物を見る目は、つねに温かい。
三谷幸喜は人間が好きなのだ。そのことが、よく伝わってくる群像ドラマだった。
前述したように「キャスティング賞」を受賞しているが、本当に配役が新鮮だった。あらゆる出自の役者を揃えられるのが大河ドラマのよいところだが、今回は小劇場の舞台俳優や芸人と呼ばれる人たち、また若手を中心にしながらも、ベテランも配置した点などが評価されよう。演じた人たちも・皆、うまかった。野田秀樹の勝海舟にはもう脱帽である。松本良順をやった田中曹司や、出番はわずかだったが橋本左内の山内圭哉なども私のお気に入りとなつた。私にとって歴史ドラマを見る楽しみは、歴史上の人物が姿・形を持って登場し、動いたり喋ったりすることだ。活字で読む彼らは、とても遠い存在である。だから俳優が、それら
しく演じてくれるとワクワクするし、感動もする。「新選組!」における久坂玄瑞だが、彼はこのドラマでは単なる〝長州の火の玉男″に見えたし、新選組が主役なのだから、おそらく三谷氏もそのつもりで描いたのだろう。しかし演じる俳優は役になりきる。久坂役の池内博之は、霊山にある久坂の墓参りまでしたという。そして蛤御門の戦いで敗れ自決の覚悟をし「我らがなしてきたことは何か意味があったのか、俺たちが生まれてきたことは…」と、無念の涙をこぼす。もう見ている我々は感動する。これこそ歴史ドラマなのである。三谷氏はあそこを感動シーンにするつもりはなかったようだが、池内博之の涙は、久坂になりきっていた彼にとっては当然の演技だつたのだ。
つづく

 


わが愛しのヒラメちゃん-4

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わが愛しのヒラメちゃん-4

福島雅子(広島県福山市在住)

考えてみるに、沖田が美丈夫でなくてはならないというのは、「労咳」「夭折」「天才的剣客」から醸し出されるイメージに酔わされていたからに違いない。労咳は美丈夫でなくても罹患するし、夭折もする。美丈夫でなければ天才的な剣客ではないというのも当たらない。顔の問題ではなく、天賦と努力の賜物であろう。
「ヒラメちゃん」は、美丈夫よりもよほど近しく親しみやすい人に感じられる。もう映像で二枚目の俳優でなくても、イメージが違うじゃないかと文句を言わなくてすむ。むしろ、ヒラメちゃん系の人が演じてくれてもいいのだが、映画会社や放送局の人は視聴率などあるから困るかもしれないし、そんなの絶対ダメというファンのかたもいらっしやることだろう。沖田は没後百四十年に近くなつても、いや、これからも永遠に夢を与えてくれる存在なのかもしれない。
沖田総司、わが愛しのヒラメちゃんは斯くも不思議な魅力的な男の子である。
追記
沖田が写真を撮らなかったのは、おそらくやつれた顔を郷里の人々、特に姉に見せたくなかったのだろう。労咳ということも、かなり後まで内密にしている。
写真を見て皆に泣一かれるのは辛い。
元気な時の笥分を覚えていてもらえる方が嬉しいと思ったのではなかろうか。決してヒラメ顔が原因ではあるまい。
それ故にこそ、謎とロマンを残しているのだが、彼岸の沖田は「オイオイ人の顔で遊ぶんじゃねえや」と御冠かも知れない。


わが愛しのヒラメちゃん-3

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わが愛しのヒラメちゃん-3

福島雅子

つい先日のことである。旧くからの友人が、一冊の本を贈って下さった。
『ふるさとが語る土方歳三』で、前述の谷春雄氏と新聞記者の大空智明氏の対談である。その中に沖田の顔についての対談がある。長くなるが引用してみる。
谷(前略)「まだね、親父の俊宣さんが生きているんですよ。俊宣さんは彦五郎の息子で、昭和四年まで生きていますから」
大空「すると、その時は何歳ぐらいですか?」
谷「もう八十近くなつて。その頃ね、豊さんて孫がよくお爺さんの俊宣さんの話を聞いたっていうんです。その頃は晃さんが中学生で(中略){おじいちゃん、沖田総司というのはどんな顔してた?}と聞いたら、お爺さんが {うーん}って考え込んで、{そうよな、沖田総司はヒラメ みたいな顔をしていた}、そういう話をしたそうなんです」
大空「ヒラメみたいな顔って、のっぺ らぼうということですか」
谷「そうじやなくてね、その一族や兄弟の写真や何かを調べてみますと、目の感覚が寄っているんですね」
大空「確かにヒラメの目は左右が寄っ ていますね。でも、あんまりはっきりすると沖田総司のイメージが悪くなりますよ」
谷「いや、それでね、当時、沖田総司のファンが多くて、小説家の大内美予子なんかが沖田総司について書いたでしょう。よく私の方へ遊びに来ていたころで、その話をして大笑い しちゃつてね。それで、それをNHK教育テレビで 「沖田総司の世界」
(筆者註・「偶像の周辺」……昭和四十人年三月九日放送)とかいうのを一時間番組でやったことがあるんです。その時に私が日野にある伝承を少し話をして、それで今度は佐藤さんへ振ったんですよ、どうしてもその話をさせちゃおうと思って。豊さんがやっちゃたんですね、それをテ レビで。
大空「なるほど、それは大変だったでしょう」
谷「それから”ヒラメちゃん”というあだ名になつて大笑いしたんです」
この番組は見た記憶がある。この時であったのか解説を開いたのは。ただ、その時はまるでピンと来なかった。どういう顔なのか想像できなかったし、沖田は美丈夫でなければならないという確固たる信念があった。(今思えば若かった。「冗談新選組」に出会うより数年前のことだ。)